後付けでもいいじゃないか

私が教師を目指した理由について述べます。

①勉強が好きだから、勉強の楽しさを教えたい。
②進路選択に悩む子どもの助けになりたい。
③学習が保障されていない子どもに手助けしたい。
④現代文を通して世界の解像度を高めてほしい。
※私は国語教師です。

いろんな理由が湧き上がってきます。
教師になった理由が複数あるというわけではありません。時間の流れを経て、理由が①から④へと変容したのです。

いちばん初めは①の理由...だったように思います。中学生のときか、高校生のときか、くわしくは忘れてしまいましたが。

しかし、高校を卒業して、教育大に進学し、そこで自分は教師に向いていないと悟ったとき、急に自分のやりたいことを見失ってしまいました。突然、別の道に進むわけにいかず、もとの通り、教師を目指したわけですが、そのときの教師になりたい理由が②だったように思います。

常勤講師として、教育困難校で経験してから、家庭環境が大変で、日々生きるのに苦労している生徒がいることを知り、それからは教師の志望理由が③に変わりました。

で、今思い返すと、私が教師になった理由は④のように思うのです。

年齢を重ね、いろんなことを経験するうちに、自分が教師を目指した理由が変化しました。

でも、教師を目指した理由は本来ひとつであるべきじゃないですか?という疑問を抱かれかねません。なぜなら、何か絶対的な理由があったから、こそ今の結果があるのだから。つまり、原因があって結果があるわけですから、「今、私は教師である」という結果をもたらした原因=理由はつながるべきではないか。そう問われかねません。

私も以前はそう思っていました。
しかし、今はどうでもいいと思ってます。
私が教師になりたい理由は、①〜④すべてほんとうですから。

いろいろ経験を積む中で、教育に対する思いや自分なりの問題意識を形成してきました。教師を志したときの自分の考えとはずいぶん変わりました。教師になる直前は②の理由をもっていましまが、その理由では今の自分の結果につながらなくなってしまっているのです。つまり、理由と結果の整合性が保てなくなったわけです。今は④の理由の方がしっくり来るから、教師になった理由をそれに定めているにすぎないのです。

そう考えると、私の教師を目指した理由が変化したのは、整合性を保つための辻褄合わせだったわけです。今の自分の状況に応じて、その結果と理由の整合性を保つために、その都度理由を形成していたわけなのです。

だから、理由なんて別に変化してていいし、結果との整合性を保つために後付けしてもいいんです。

令和ロマン(くるまさん、自粛しちゃいましたね...)のラジオで、自身のコンビ名について、大正ロマンから名付けたと話したことがあるが、あれは後付けだ、と言っていました。大正と令和をつなぐ、つまり、昔と今をつなぐという理由がある。一見するととてももっともらしく見えますが、令和ロマンと名付けたときはそんなことを意識していなかったそうです。

このマインドで全然いいんですね。

何かをはじめるのに理由なんていらないのかもしれません。理由なんてそのうちついてくるから。

私が好きな小説家・朝井リョウの『スター』という小説にこんなせりふがあります。

「例えば君は、おじいさんの影響で映画を観るようになったと言っていたね。よく名画座に連れて行ってもらったと」
「はい」
 尚吾は頷く。
「口酸っぱく、質のいいものに触れろ、と言われてきました。実際、祖父が色んな名作を観に行かせてくれたおかげで、自分が今ここにいると思っています」
「そのおじいさんの言うことを信じていたのは、何故だ?」  
 いつの間にか鐘ヶ江は、組んでいた脚をほどき、こちらを見ている。
「おじいさんの言葉に価値があると信じて疑わなかったのは、何故?」  
 二つの足の裏がしっかりと地に着いた状態で、再び、そう尋ねられる。  
 そんなの。尚吾は唾を飲み込む。  
 そんなの、もう──
「わからない。そうだよな。それは当然のことだと思う。そういう理由を考えずに生きているときに聞いた言葉だったから、としか言いようがないよな」
 鐘ヶ江は言葉を切ると、また、脚を組んだ。 「そういうものなんだ。自分が信じ続けているものだって、元を辿れば質も価値もどれくらいのものなのか、本当のところはわからない。でも」
 鐘ヶ江は、先ほどまで観ていたモニターへ向き直る。
「君が、おじいさんと沢山の映画を観た時間は確かに存在する。それは絶対に変わらない本当のことなんだ」

朝井リョウ『スター』

理由だけでなく、そもそもひとが信じていることだって同じです。自分で信じているものですら、元を辿れば質も価値もどれくらいのものかわからない。でも、自分がそれを信じるようになったその出来事があったのは確かに存在するならば、それでいいのでしょう。その出来事を受けて、今の自分があるという事実は揺るぎようのないことですから。


私たち人間はつねに一貫した軸を持っているわけでも、論理的な考えをつねにできるわけではありません。

ですが、今自分が考えていること、それは揺ぎようのないものです。今の自分があるのは、過去の自分があったからで、過去の自分がどう考えていたのか、何を信じていたのかなんてさほど重要ではないのでしょう。

これは以前ブログで書いた、過去は変えられないが、過去のあり方は変えられるという話に通じると思います。

そういえば、このブログを始めた当初の目的は、いっぱい旅をして知見を広げるためだったように思いますが、今では、私の中をぐるぐるめぐるあらゆる思いを整理するためになっています。目的が変わってますが、そんなの取るに足らない問題ですね。

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