仙台セットのこと
はじめに
ここでいう「仙台セット」とは、宮城県仙台市を中心に、東北近辺にいた天鳳民が、定期的に行っていたリア麻のセットを指します。
主な活動期間は2010年末から2017年くらいまでの約7年間で、現在は活動を休止しています。
このセットを立ち上げたのが他ならぬ私です。現時点で、手元に3106半荘分の記録があります。
天鳳はいやでも記録が残りますが、リアルで行われた麻雀でこれだけ記録が残っているセットも珍しいのではないかと思います。
活動を休止してからそれなりに経つので、今や知る人ぞ知るとまでは言わないまでも、知っている人も少なくなってることでしょう。
この活動が埋もれてしまうのも惜しいので、一度きちんとまとめておくべきだと数年前から思ってはいましたが、この度ようやくまとまりました。
あくまで私史としてまとめたつもりです。
設立の経緯
このセットの成り立ちを話す前に少し私の話をします。
私は元々ハンゲームという麻雀サイトで「madarasensei」という名前で活動をしていました。2006年頃のことです。
天鳳を始めたのは記録によると2007年の12月で、そこでハンドルネームが「真鱈」になりました。
その頃はまだ東京にいましたが、程なくして仙台に移住することとなり、それを機に徐々にネット麻雀から離れていきました。これが2008年4月のことです。
その後も月100戦いかない程度に打った月はありましたが、生活が安定した2010年の夏頃から本格的に三鳳に復帰し、他所のセットへの参加も再開しました(東京ではハンゲのセットをそれなりにしてました)。
そんな折、すずめクレイジーの2番弟子だった青春18切符さんが仙台に来るのでオフ会に参加しないかと声をかけられました。
仙台大規模オフ
声をかけてくれたのはハンゲ時代からの友人のたまねぎ雀士さんです。2010年の10月10日頃でした。これが仙台セットの生まれるきっかけとなります。
このセットは大規模を称してはいましたが参加者は10名、せいぜい2卓立つ程度の規模でした。
参加者は、青春18切符、たまねぎ雀士(寂夜霽月)、リチウム(黒柱勃樹)、奈落の王、リツミサン、HAIHUN、kuro*、弧月電脳斎、tacos(鳳南研究所)、そして私です。この時点ですでに会の原形が現れているのが面白いです。
当時としては珍しかった鳳凰民が4名いて、リアルで鳳凰卓が立ったなどと言って盛り上がっているような牧歌的な時代でした。
奈落の王の雷名は、その少し前に私が参加した千葉オフでkickchiさんから「仙台といえば奈落さんですよね」と言われるくらいでした。りつみ君はこの時点で9段だったらしいですが私は全く知りませんでした。
このオフを開催する前提として、リチウムとハイフンが岩手のたまねぎさんに会いに行くという前史があり、中心は彼らでした。
私は、知り合いらしい知り合いが、誘ってくれたたまねぎさんしかおらず、大変肩身の狭い思いをしているのかと思いきや全然そんなことはなく、最初から自宅にいるような居心地の良さを感じていました。
その日は昼間に集まって一日中、四麻やら東天紅やらをやって、夕方に飲み会が開かれました。
ちなみにその日、りつみ君は遅れてきましたが、用事があると言って、オーラスにカン4sのタンヤオドラドラをダマでツモってトップをかっ攫ったままそそくさと帰っていきました。
tacosさんは鼻水が止まらなかったようで、初体験の東天紅をやりながらサイドテーブルのゴミ箱をティッシュでいっぱいにしたあと、体調不良でそそくさと帰っていきました。
定期セット開催の合意
セットの後の飲み会で、私と奈落さんが「今日はとても楽しかったです。今後も定期的にこんな感じのセットをしたいですね」という話をしたところ即座に合意し、そばで話を聞いていて仙台の雀荘事情にも詳しかったリチウムが乗っかり、ご近所さんだったtacosに声をかけセットをやろうということになりました(2010.11.28 さかえ開催)。
「俺らの世代で黄金時代を築こうぜ」というような気概は全然ありませんでしたが、自然にそうなりました。
並行して、第1回開催までの間に当時天鳳民御用達のSNSだった「ドボン天国」というサイトで仙台セットのサークル(管理人が私、副管理人が奈落さん)を立ち上げ、めぼしい人に声をかけ、当座はそこの掲示板で連絡を取りあうことにしました。
その後の経過
その年は規模を拡大してクリスマス会なども開いたりはしましたが、定期的なセットはリチウムさんとたまねぎさんと私が年末にそこそこ麻雀をしたくらいで、年が明けてから少しずつ板についていきました。
2011年に入り会は本格的に始動します。2月にはtacosの紹介で、元メンバーのまつさん(コマツの酒)が参加しました。
また、準レギュラーみたいな参加の仕方をしていたりつみ君と三河屋(spoiled)さんが徐々にレギュラー化していきました(2011.6月頃から)。
その間、東日本大震災などもありましたが、会は徐々に人数を増やしていきました。
2012年に会の中心だったリチウムとtacosが遠方に行くということで、活動が一旦沈静化するかに見えましたが、勢いは衰えず、新規メンバーの参加で再び盛り上がりを見せます。
その後も会は肥大化を続け、最盛期(2014、2015年)の年末には30名規模の忘年会を行うくらいにはなっていました。
みんなそれぞれ個性的で、天鳳に一家言持った豪族の集まりで、さながら梁山泊のようでした。
2015年の秋頃から私は会と少し疎遠になりました。2016年の4月に結婚してさらに疎遠になり、運営の中心が他のメンバーに移りました。
その結果、会は分裂しないまでもいくつかのグループに分かれた感がありましたが、結局それもそれぞれの事情やコロナなども相俟って現在は活動を休止しています。
ルール
ルールは一般的な赤1のアリアリ東南戦です。最初は曖昧でしたが、のちに整備されて天鳳の雀荘戦準拠となりました。
また、レートは点3のウマ1-2、祝儀100ptになりました。
当時、東京の方でやっていたセットはやれ2ピンだの、やれ3ピン東風だのと聞こえてきていたので、当初の私のイメージではピン東南くらいかなと漠然と考えてました。
点3とかそもそも打つ意味があるのかとすら思ってましたが、協議の結果ここに落ち着きました。
ただ、祝儀は点5との折衷になりました。ピンの比率(5000点相当)だとただのリーチゲーになり、点5の比率(2000点相当)だと祝儀が無視されてしまう。3333点相当だと1枚オールをツモると+1万点(3333点×3)の収入となって1順位分のウマと整合するので、オーラスで段ラスが自暴自棄になることもないっぽく、だいぶ良いバランスがよいのではないかという理由だったのは覚えています。
学生もそれなりにいたので、ピンでは存続できなかったのではないかと思います。事実これでうまく回ったので、結果はだいぶ良かったんじゃないかと今は思っています。
セット後の飲み代は年長組の私やりつみ君その他の方が多めに払うので、学生やら遠方からのゲストの支払いはだいぶ少なかったはずです。
会の理念
会のコンセプトは、鳳凰卓に行けるくらいの人同士が、低レートで、長時間打つという感じになっていきました。そうなった結果、足が遠のいた人もいると思います。
ただ、新規参加者の開拓は、各自それぞれ勝手に声掛けしており、そこに明確な基準はありませんでした。
私としては、黙々とただ半荘15回くらい打って、そのあと飲みに行って麻雀の話をああでもないこうでもないとしながらまた戻って打つような、部活のようなストイックな感じがとても気に入ってました。
天鳳をそれなりに打ってる人だとこういうのに抵抗がない気がします。
麻雀以外の活動は、飲み会を除けばほとんどなかったと思いますが、なんだかんだで、みんなで二郎を食いに行ったり、メイド喫茶に行ったり、温泉に行ったり、ジョジョ展に行ったりしました。その他にもあったかもしれません。
開催場所
記念すべき最初の開催地は仙台駅前のさんくちゅありでした。その後、どくだみ荘と駅前のさん(現在のブル)辺りに分散して、途中から少し55ハウス(ココハウス)時代が続くも、最終的にはマーチャオに落ち着きました。
その他にも一番町さんくちゅあり、ファーストワンやロンロン、金太郎、第2ふじなどでも行われました。今はマーチャオとブルしか残っていません。(追記∶第2ふじも健在でした)
飲み屋も特に決まってはいませんでしたが、かんのや、伊達っこ、さかなや道場、芋蔵、夢人辺りは結構行きました。これも今は「かんのや」しか残っていません。
かんのやは最初のうちはいつ行っても同じおっさんが出てきて「2、3分待って」と言ってきますが、それは実は隠語で、本当は20分くらい待たされます。そして、入店と同時に大抵はご新規様として扱われます。
なぜかいつ行っても新規なので、向こうも実は「こいつらまた来たな」と思っているけど、HUNTER×HUNTERのドッジボール編で、メンバーが一人でも入れ替われば新しいパーティとして認識されるルールで新規扱いしているんじゃないかと思っています。
ちなみに記念すべき青春君の大規模オフの飲み屋は、仙台で最もチャラい場所の一つと言われているフォーラス前のそば、ビルの5階にあった「陣屋」という飲み屋だったと記憶しています。ここももうありません。
私はいつも焼酎や日本酒ばかり飲んでいましたが、りつみ君やまつさん、松島君、tacos、奈落さんたちはビールを爆裂飲酒していました。
対して、せいるさんやことよろたちはカシオレ派で「とりあえずビール」を牽制していたように思います。私もたまにカシオレ派に寝返ったりしました。
問題点
問題はいくつか起きましたが、問題点としてそこまで反省するようなことはなかった気がします。運がよかったのかもしれません。
基本的には中心メンバーの人徳のようなもので成り立っていた気がします。会のルールもそこまで厳格ではなく、法治というよりは徳治でした。
記録集
おわりに
宮沢賢治は、勤めていた花巻農学校を辞めたあと「生徒諸君に寄せる」という詩のメモを残しました。その第一節を引用します。
仙台セットを思い出すとき、いつもこの詩を思い出します。
セットでの麻雀はネットでの麻雀と違って、卓を立てるために他者への接触が必要だったり、場代や交通費が必要だったり、リア麻特有のめんどくささがあったりします。
ですが、仙台セットにはそれを補って余りあるほどの良さがありました。
卓上での実にくだらない会話。これを目の前の人間とすることがどんなに楽しかったことか。私は毎日を鳥のように歌って暮らしました。それらの一つ一つは今も私の人生を豊かにしてくれています。
天牌風に表現するなら、「セットってのは、どれだけくだらない会話に場代を注ぎ込めるかだ」となることでしょう。
私が人生を語るのも早計でしょうが、人生というのは寿命を限界として与えられた時間を、各自の経験に変えてゆくことだと思います。
そして経験というものは一つ一つが偶然で出来ています。
あってもなくてもいい部分、まじでどうでもいい部分、どうでもいい情報、どうでもいいやりとり、そういうもの一つ一つが集合体となって一つの人生を形作り、人生を彩っているのです。
栄養を取らねば人間は死にます。これは必然で、ここが本質です。しかし、栄養を取ったかどうかだけで人生の豊かさは測れません。
その栄養を取るために何かを食べたのか、食べたのなら、何をどのように食べたのか、どこで食べたのか、いつ食べたのか、誰と食べたのか。何という店で、何時何分に、どのようなメニューからそれらを比較し決断をしたのか、そのときどういう心境で何を考え、どういう会話をしたのか・・・etc
そういった無数とも思える偶有性の一つ一つがパッチワークのように継ぎ合わさって本質を構成し、一度きりの人生を彩っているからです。本質は偶有性を離れて存在できないのです。
私はこのセットを立ち上げるくらいまでは、本質にばかり目を奪われていました。
しかし、30歳を過ぎたころから、この一見どうでもいい部分の積み重ねこそが実は人生なのではないかと思うようになりました。
このセットを立ち上げたことを後悔したことは1度もありませんが、成績表をたまに雀荘に置いてきてしまったことと、閉鎖してしまった天鳳SNSでのセット関連の記事を保存しておかなかったことは今でも悔やんでます。
経験の細部をもっと具体的に再構成するために、正確な記録を、もっと慎重に残しておけばよかったと悔やんでます。
最後に、twitterに上げたセットの思い出も貼っておきます。