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2024年度 自己紹介
純情たれ自分。それが最大限の自己肯定だと信じる。
純情、とは、つまり心の中で生じる、できたてホヤホヤの、鶏に先立つ卵だと確信する言葉、に素直であること。それをなるべく傷つかないまま、新鮮なまま、口から吐き出して、空気にフワりと漂ったら、隣にいる君が音もなく丸呑みしてくれる、ような会話を愛している。
僕はこれを、静を基調とする会話、と名付けた。
お互いが、ビームみたいに、自分自身だと思うもの全てを、過去の思考の蓄積やホットなエピソードを打ち合って尽きたあと、にしか生まれない沈黙にたどり着きたい。心に言葉が生じるのを待っている“静“こそが君と僕とが同時にこの世界に存在している、ということを何よりも信じさせてくれる。
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人のいう「しあわせ」は二つある、ということは発見済みである。
一つ目、は”幸せ”、この上ない、としか表現できないもの。
二つ目は、便宜上”シアワセ”と呼ぶことにするが、別に大して痛くも痒くもないから明日もたぶん生きていると思います、という状態に対する形容。「五体満足なだけでもシアワセですよね」とか、「いやー色々ありましたけどシアワセにやってますよ」みたいに使用される。
幸せとシアワセは言葉としての没入感が違う、というか、シアワセはメタ的でどこか他人事なのだから、幸せを感じている人間が「まぁシアワセですよ」などと言うことはあり得ない。故に両立しえない。「まぁ」じゃねぇよ、という話である。
僕は”幸せ”を「しあわせ」と認識していた。
いやそう区別して考えていなかったから、「しあわせ」に関する人との行き違いを信条の問題として片付けていた、と言う方が正しい。
だから「人の幸せを祈る」とか理解不能であった。祈ればどうこうなるものでもないし、それはその人自身の問題であるし、祈る、と表現せざるを得ないような距離感で、その人の幸せを自分が実感するようなことは、僕にはできない。僕が幸せなとき、隣にいる君も幸せだったなら嬉しいな、と最低限その近さであれば思うことはある、程度の話だ。純情たる自分が人と比べて冷淡では困るから、皆さんが、「人のシアワセを祈っていること」をわざわざ主張しているものだと信じたい。
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少し大人になった。
「あなたは何を価値(固定倫理, 尺度)としていますか」という質問は、確かにその人の本質を掴むのかもしれないが、それは本質なるものの存在を勝手に設定しただけであるし、実は期待するほど何も分からないことを経験から悟っている。
先人(ヨーダって未来人…?)の「Don't think, feel!」がたぶん正しい。目、とかに頼っていても駄目だよね。いざというとき「だが俺の魂がそれを否定してんだよ!」と叫べるかどうか。一方で感じる主体たる自分は思考の蓄積と切っても切り離せない(そのものだ、と言う元気はない)のだから、日々の足掻きは無駄でない、とこれもまた信じている。
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他者はどこまでいっても他者である、という割り切りと心地よさを、僕は獲得してきている。故に家族になる、という禁じ手的な魅惑、とあと数年すれば対等に向き合えそうだ。あ、おじさん同士の結ぶ義兄弟の契りは(本当の意味合いで)尊いと思います。
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純情たること、君を感じること、君に純情たる僕を感じてもらうこと。
すなわち、幸せになること。
静を基調とする会話、をたくさん実現すること。
静を基調とする会話、に負けない幸せを探ること。
以上を主題に、「海賊王に俺はなる」的目的として、それに到達するまでの物語を楽しんで今年度は生きていくよ!よろしく!
以上、自己紹介でした。
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年度明けましたので、改めて自己紹介です。
自己紹介、以外のタイトルを付けること、の傲慢さ、に2024年4月の僕は、未だ打ち勝てていません。自己紹介以外の場で自分を語ることが嫌悪される世界に、今年度もお世話になります。まぁ大抵の場合、自己紹介で自分を語ってしまう方が、以降、浮いてしまう気もしますが。自己、ドロドロ渦巻いてキモイことこの上ないですもんね。