月と陽のあいだに 206
流転の章
岳俊(5)
「陽族の笛の音をぜひ聴きたいものだ」
書状を読んだ皇帝の望みで、岳俊は再びネイサン邸に呼ばれた。
通された音楽室には、彫りの深い顔立ちをした哲学者のような老人が座していた。目の前でひれ伏す岳俊に、老人は声をかけた。
「堅苦しい挨拶はよい。今日は珍しい笛の音を聴きに来たのだ」
促された岳俊は、もう一度礼をすると、顔を上げて横笛を構えた。
ゆったりと草原を渡る風のような旋律は、岳俊の故郷である漠州の民謡だ。皇帝は目を閉じて、笛の微かな震えさえ聞き漏らすまいとするようだ。
やがて調べが終わり、岳俊が笛を置くと皇帝も目を開けた。
「良い笛だ。素朴な音色は、そなたの心根であろう。若い頃の楊静を思い出した」
岳俊は黙って頭を下げた。
「余に仕えた楊静のように、そなたも月蛾国に留まらぬか?」
岳俊は顔を上げない。
「お祖父様、そのようにおっしゃっては、岳俊殿が困りましょう」
白玲が慌てて割り込むと、皇帝は微かに笑った。
「蒼海殿下の意図は受け取った。どのような時でも、それぞれの国に腹を割って話せる者がいることはとても大切だ。今後は、ネイサンと白玲をその任に当てよう」
承知いたしました、と岳俊が答えた。
「蒼海殿下には、我らの意図を陽帝に正しく伝えていただきたい。そしてナーリハイのことは、必要とあらば我らの情報を知らせることを約束しよう。
ただし、陽帝には暗紫回廊への野心を捨ててもらわねばならぬ。暗紫山脈は、全体がいわば山の部族の自治領なのだ。ナーリハイ抜きの交易の拡大を考えるとしても、山の部族へ手出しをせぬと確約してもらわねばならぬ」
白玲の手になる返書が、流水紋の手巾とともに岳俊に手渡された。
「この手巾は、殿下に差し上げたものです。これからも我らとの友情の印として、お手元に置いていただければ幸いです」
「確かに承りました」
岳俊は書状と手巾を押しいただくと、皇帝に深く拝礼した。
そのあとは酒肴が運ばれ、ささやかな宴になった。
笛や筝の合奏の後、岳俊は皇帝に問われるままに、輝陽国での白玲の様子を語った。
蒼海学舎での数々の武勇伝は、初めて聞く皇帝やネイサンを楽しませたが、白玲のせには冷や汗が流れた。
やがて岳俊が暇乞いをすると、皇帝は一振りの笛を差し出した。
「笛は使い込むほど良い音色になる。可愛がってやるが良い」
岳俊は「一生の宝にいたします」と、恭しく受け取った。
やがてアラムの花が咲き誇り華やかな宴が終わると、旅芸人の一座とともに、岳俊も暗紫山脈を越えて、輝陽国へと帰っていった。
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