生殖記/朝井リョウ読書感想文
達家尚成の人生実況動画を博識な生殖器と同時視聴するリアクション配信。
「生殖記」をわかりやすく伝えられる言い換えは、これだと思う。
読後、浮かぶ情景は温かく、しんどい現状の向こうに希望が見える。
しかし、その希望が達成された未来はディストピアと自分には感じられる。合理的、非常に合理的なのだが、実現したとき私たちニンゲンはもう戻れなくなるとわかる。
達家には幸せになってほしい、しかし、達家の幸せが私たちの困難であったなら、どうか。
そんな「生殖記」の感想文である。
1,あらすじ
生殖器が ー正確には生殖器に宿る生殖本能が、宿主とは別に意識をもって、宿主の行動・発言・思考を観察している。生殖本能は輪廻転生のようなシステムで様々な宿主を経て現在、ニンゲンのオス個体「達家尚成」に宿っている。
尚成は同性愛者である。物心ついたころにはそうだった、経緯は省きます。
言動が女性的であることが、学校という共同体において迫害を受けた過去がある。以降、共同体から疎外されて、生存が難しくなる状況を避けるべく行動を選択している。
尚成の日々は、内面を知らなければ可もなく不可もないように見える。しかし、尚成は同性愛者であること、そして尚成を観察しているのが生殖本能であることが、読み手の思考を深みに連れ出している。
達家尚成は、圧倒的に観察対象である。全てを生殖本能に観察され、レビューを入れられる。レビューは過去の経験に基づく生殖本能的雑学だったり、キャッチーなツッコミだったりする。きっと作者はチャタテムシになったことがあるに違いない。
2,生殖本能のゴール
生物のゴールは次世代を残すことだと思っていたが、どうやら生殖本能視点ではちがうらしい。この世に親個体とちがうかたちで登場したところで、すでにゴールを達成しているのだ。
殖えることではなく、残ることのほうが重要である。残らなければ、増えることもできない。前代と異なる形で誕生した時点で、絶滅しかねない環境変化の際に生き残る可能性を生めているのだ。
3,”次”がほしい人間たち
達家は作中で"次"がわからなくなり、トイレから立ち上がれなくなるタイミングがあった。立ち上がるためには"次"が要る。
米が炊ければいいのに、よく分からん機能が搭載される炊飯器、連絡が取れればいいのにカメラの性能ばかり上がるスマートフォン、維持できればいいのに上がり続ける売上予算。
昨日の同じ今日、今日と同じ明日を再生産できれば生存できるのに、"よりよい次"のために僕らはありもしないはずの余力を今日使い切る。
明日、楽になるためにやっているはずの尽力は、明後日の目標を高め、明日の自分は一層力を使う。
使った力を充填するために、個人の生活は回復に重きがおかれる。今日と同じ明日を再生産するだけしか、力を使わなければその分だけの回復で済むはずなのに、"次"を求め頑張ってしまうから、一層の回復が必要になる。一層の回復には一層のコストがかかり、満足のために、また訳のわからない能力がついた炊飯器が生まれてくる。
4,もう戻れない人間たち
生殖本能のナレーションに「人間は後戻りが苦手だ」という一節があった。
その通りだと思う。訳のわからない炊飯器も、我々の生活も発展したあとで、元に戻るのは大変だ。訳のわからない炊飯器から、土鍋に戻ることは難しい。
明日はきっと良くなると今日努力してしまうから、明日の自分は明後日の目標の高さに絶望する。それなら、今日と同じ明日を作るだけにしておけばいいが、みんな一緒にせーのでこの競争から降りなければ、誰かひとりが得をするだけだ。それは辛抱ならない。
もう戻れないほど、僕らは発展してしまった。
"現状維持"ではなく"持続可能な発展"を目指してしまう。資本主義から降りない限り、僕たちはより良い昨対比を求めて、ブルシット・ジョブを生み出していく。
生存に真に必要なのは、水であり、安全な棲家であり、食料であり、金ではない。しかし、生存できるからといって、次を求める社会から降りることは許されない。サバイブするために達家が「経済的自立」を志向したのも納得である。
キラキラした面で"次"を求め活動していくやつらも、「経済的自立」が達成されていない状況に陥って初めて今の仕組みの虚しさに気づくのかもしれない。貧すれば鈍するとはよく言ったもので、生存上必須のモノゴトがお金で交換されている今の社会において家計が破綻することは、突然命が脅かされることを意味する。ワイルドぶっているやつも、環境活動家も、野生に還ったりはしない。野生下じゃ生きていけない自覚があるからだ。
ぼくらは"現状の社会を存続させる"という前提条件を生まれながらにして抱えている。寒さを凌ぐ毛皮や脂肪も、獲物を取るための運動能力も爪も牙もない僕らは"この発展した社会を存続させる"ことが生存に必須なのだ。
その為には、少なくとも現状維持できるだけの人口が必要だし、産んで殖えていく必要がある。"現状の社会を存続させる"前提条件があるから、同性愛者は思い悩んでしまうのかもしれない。
わかってきた。だからこそ、達家の妄想する世界が自分(異性愛者の読者)からディストピアに思えるのだ。生殖にはオスとメスが必要な生物で、恋愛結婚が主流の現在だと、同性愛者は生存のための基本サービスを受けるための前提条件である"現状の社会を存続させる"ことに寄与できない。
自分が何も考えずに受け取ってきた基本サービスを、意識的に受け取ることに達家はリソースを割く必要がある。生存は楽だけれど、存在するだけではいられない自分が、次々と"存在する意義"を提示するために新しくて必要のない仕事をつくっているのかもしれない。生存するだけでは、生きていけないのだ。贅沢な生き物だな。
そして、僕らはもう"生存するだけ"に戻ることはできない。だって前提条件にある社会が拡大しているのだから。そう考えると科学はつくづく余計なことをしたと呪ってしまう。
「科学」というと、チ。/魚豊は観察と記録が残ることで、地動説を証明していく物語であった。途中に「死んだ後に残るのは、自分の居ない世界であり、それなら死後の幸せのために信仰に努める」と理解できる節があった。チ。だけでは、連綿と続いていく観察と記録と思考が現代に続いていることを想像し胸が熱くなった。しかし、生殖記を読んだ今、後世に拡大の余地を残すことが、如何に残酷で無責任なことかと感じている。
ここまで感じたことをテキトー書き散らしているが、知恵をつけることは、アダムとイブが知恵の実を食べたことにも通ずるのではないか。
ずっと無知で発生して消滅していくだけの生物であったなら、こんなに悩んだり、自殺したりなんかしない。知恵をつけ、"次"を意識してしまったから、私たちは悩み、思考し、時としてイノベーションを起こしたりして、どんどん新しくなり続けてきた。
「……翔陽はいつも新しいね」と言ったのは、ハイキュー!!/古舘春一の孤爪研磨だったか。どんどん新しくなる日向を見て、面白そうと捉えているが、日向についていく影山や烏野高校の面々は必死のはずである。日向についてくことで、全体がレベルアップしてきた烏野はバレーボールを勝敗のあるスポーツとして楽しむには必要なことだったろう。もし、烏野の志向するバレーボールがそうでなかったなら、疲弊した部員たちはせーので部活を辞めてしまっていたのではないだろうか。
つまるところ、拡大していくことは美談になり過ぎているのではないか。"足るを知る"は老子の教えだが、自分自身を知った結果、現状に満足できなかったかつての方々が努力を続けてしまったから、こんな誰も降りられないチキンレース社会が出来上がったんじゃないか。ここまでにしよう、なんて言ったら出し抜かれる。もっと頑張れ、もっと働け、もっともっとと、自分が他の誰かより損しないために。
もう戻れない、なら自分が他の誰かより損することはないようにしたい。見下されるのは耐えられない。「マラソン大会、一緒に走ろうね」と約束をして最後に出し抜かれると、殺意が湧くのと一緒だ。得をしたのはそいつで、負けたのは自分。事実が残る、次は出し抜いてやるぞと思う。今度は自分が出し抜く側にならなければ。不毛だ。だが、生存するだけじゃ生きていけない生き物なのだ。虚しいな。
5,文を結ばなければ
読後のこの感じをとりあえず言葉にしてきた。ヤバいものを読んだ感があるが、どうヤバかったのか、前作の正欲ほどわからなかった。
書き散らして、見えてきたのは、問われているのは多様性とか、ジェンダーとか、表面化している課題ではないのではないかということだ。
「発展してきたぼくらの社会ってこれでいいんだっけ」みたいな問いだ。資本主義? 共産主義? のなかで生きて文句言う人も結局前提を覆してはいない。
ぼくはそう読んだ。だからといって、立ち上がれ! 不幸なものたちよ! とかそういうアジテーションはない。
達家が気づいているように、この社会は存続していくだけで、不幸になっていくのだ。みんな幸せになりたいのにな。おわり。
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