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ジャン・ルーシュ 西アフリカ映画への貢献

 フランスの映画作家であり、映像人類学者としても知られるジャン・ルーシュ(1917-2004)は、24歳のときに初めて西アフリカの地を訪れた。フランスの植民地だったニジェールで、土木工事の技師として働くためだった。そのときにニジェール川の近くの町で、後年の映画撮影における協力者として欠かすことのできないソンガイ人の友人たちに出会っている。その友人たちのなかから、将来の西アフリカ映画を支える人材が出てくることになるとは、誰が想像することができたろう。戦時中はフランスにもどってレジスタンスに参加したが、マルセル・モースやマルセル・グリオールに文化人類学を学んだルーシュは、戦後になって文化人類学の論文を書き上げるために再び西アフリカにもどってくる。1940年代の後半からニジェール、ベナン、ガーナ、マリ、コートジボワールといった各地で、ソンガイ人やドゴン人、その他の民族における伝統生活、民俗、宗教儀礼、移民生活などの記録映画を撮りはじめた。

 ジャン・ルーシュは1960年前後になると、フランスと西アフリカを往復しながら、充実した映画作品を発表していくことになる。映画史上において重要なのは、ルーシュがシネマ・ヴェリテ(真実の映画)の方法論を確立した『ある夏の記録』(1960)というドキュメンタリー映画である。その後のシネマ・ヴェリテはフランス国内にとどまらず、イギリスやアメリカやカナダへと広まり、ダイレクト・シネマの潮流へと流れこんでいくことになる。同時に、ルーシュはオムニバス映画『パリところどころ』(1964)に短篇映画を提供し、ヌーヴェル・ヴァーグの作家や批評家たちと親しく付き合い、フランス映画の新しい潮流に自身も参加していった。

 ジャン・ルーシュの代表作と目されるのは、エスノフィクションに分類される『私は黒人』(1958)と『ジャガー』(1967)である。前者の主人公エドワード・G・ロビンソンを演じたウマール・ガンダは、ニジェール西部やベナンに暮らすザルマ族の出自であった。映画のなかでは、ニアメーから湾岸の都市にでてきたプロレタリアートの若者という設定になっている。ウマル・ガンダは16歳のときにフランスの植民地軍に入隊してインドシナ半島で兵士として4年間をすごし、1955年にニジェールにもどってきたが仕事を見つけられなかった。1950年代の西アフリカは、木材、ココア、コーヒーといった主要産物を海外に輸出しており、そのための労働力が求められていた。コートジボワールのアビジャンで仕事をさがすために都市部に移住したが、彼ら出稼ぎ移民の生活は貧困にまみれ、搾取されていた。ガンダはトレシュヴィル地区にある「ニジェール人協同組合」の家に20人ほどで住み、運搬人、織物の訪問販売、港湾労働者、木材伐採、工事現場の土方などの日雇い仕事に従事し、それを見つけるために毎日苦労した。この時点で、彼はひとりのボゾリ(日雇い労働者)にすぎなかった。   

 映画の撮影時に20代前半だったウマル・ガンダは、『私は黒人』という映画のなかで自分自身の生活を演じ、映像に自分の声でコメンタリーをつけることで自分のそのような境遇を見つめ直す機会をもった。ハリウッドの映画スターの名を名乗り、自分自身の底を這うような生活を演じることで、自己を向上させるための教えと契機を得たのだ。ジャン・ルーシュのエスノフィクションに出演した人びとは、撮影を通して生成変化し、成長する。ガンダは1966年にみずから映画製作を開始し、81年に45歳の若さで亡くなるまで8本ほどの映画を撮りあげて、西アフリカを代表する映画作家になった。

 ウマル・ガンダが監督した最初の映画『カバスカボ Cabascabo』(1968)は、全篇がザルマ語で展開されるモノクロの中篇である。独立前にフランスの派遣部隊の兵士としてインドシナ半島に送られたベテラン兵士が、ニジェールに帰国する。家族や友人たちから歓迎を受けるが、主人公は断片的なフラッシュバックのなかで、遠くはなれた土地における戦闘や経験を語る。ガンダの自伝的な作品である。バーで友人や娼婦たちを前に自分の冒険譚を話し、しばらくの間は栄誉に浴すが、浪費を続ける一方で仕事を見つけることができない。誰も彼の軍人としての地位に敬意を示さず、工事現場では無能のように扱われる。そして、ひとりの男として尊厳をもって生きるために故郷に帰ることに決めるという物語である。1968年にカンヌ国際映画祭でプレミア上映され、モスクワ国際映画祭では受賞し、ガンダの出世作となったニジェール映画である。

 ウマル・ガンダの2作目『一夫多妻のワズー Le wazzou polygame』(1971)は、ニジェールにおける一夫多妻制と強制結婚をテーマに据えた中篇の傑作である。映画の冒頭、ムスリムの主人公の男がメッカへの巡礼を終えて村に帰ってくる。彼にはすでに2人の妻がいたが、娘の友だちのサントウという婚約者もいる女性に恋してしまう。彼の2番目の妻は、さらに若い女が家に入ってくるという考えに我慢がならない。婚礼の前の晩、結婚を阻止するために彼女はサントウを殺す決意をかためる……。16ミリフィルムで撮られたカラー映画であり、女性の衣服や家庭における生活風景、家の建築様式など、映像的にも興味深いディテールに富んでいる。1972年にフェスパコ(ワガドゥグ全アフリカ映画祭)で最初のグランプリに輝いた作品である。

 ウマル・ガンダは『私は黒人』に出演したあと、ジャン・ルーシュの西アフリカにおける移民をテーマにした研究調査のアシスタントを務めた。そしてルーシュがガーナで撮って1963年に発表した2本の映画を手伝い、1968年にルーシュの強い勧めもあり、ニジェールに帰国して映画作家になるためのトレーニングを受けた。ルーシュの映画製作や研究調査を手伝い、後年に西アフリカ映画を支える人材になったのはガンダだけではない。ムサ・アミドゥは、1959年から19歳でジャン・ルーシュの映画を手伝うようになった。ガーナでの映画製作を通じて録音技術を学び、ルーシュからのサポートを得てパリで録音技術を身につけ、ルーシュの『弓矢でのライオン狩り』(1966)や『水の女神』(1993)の録音やミキシングを担当した。後にはルーシュたちがニアメーに設立したIRSH(人間科学研究所)に所属し、ニジェール、ブルキナファソ、マリなどにおける伝統音楽や口述伝承の音声アーカイヴをつくる仕事に従事した。彼はウマル・ガンダやムスタファ・アラサンの映画の録音も担当している[1]。

 ジャン・ルーシュの映画『少しずつ』(1971)には、ニジェール出身のムスタファ・アラサンとセネガル出身のサフィ・ファイが出演している。アラサンはIRSHで撮影を学び、ルーシュの推薦を受けてカナダでノーマン・マクラレンらに学び、アニメーション、ドキュメンタリー、劇映画を数多く手がけた映画作家だ。特に1966年の『冒険者の帰還』は、この地域で初めて撮られた西部劇のパロディとして評価が高い。サフィ・フェイは西アフリカ映画でもっとも高名な女性監督である。ルーシュの支援を受けて、パリで人類学と映画製作を学んだあと、劇映画、ドキュメンタリー、テレビ番組を撮るようになった[2]。初期の代表作はセネガルの小さな村を舞台にした『小百姓の声 Kaddu Beykat』(1976)である。主人公の農民が干魃のせいでピーナッツの収穫があがらず、恋人との婚礼資金が用意できずに都会のダカールへ出稼ぎにでるストーリーだ。ルーシュは多くの西アフリカの人を映画のつくり手になるように勇気づけ、サポートしただけでなく、IRSHという組織の設立に尽力し、結果的にはそこで多くの人が学び働くようになった。その事実はもう少し強調されてもいい。彼の共有人類学の精神は、実社会における実践においても発揮されたのだから。

[1]Paul Henley, The Adventure of the Real, The University of Chicago Press, 2009, p. 329.
[2]Ibid., p. 328–329.

初出:「アフリカ映画の世紀」パンフレット(国際交流基金)


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