PRO-LIFE
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「産まれないほうがよかったか?」
そうこの世の人々に問いかけても、
誰も正解は分からない。すでに彼らは産まれたあとだからだ。
「あなたの人生は幸せか?」
それについても誰も答えられない。
みんな「今」にしか住んでいないからだ。
いつかアメリカの片田舎の産婦人科で堕胎反対の横断幕を持った女の人たちを見た。
「PRO-LIFE」
女の人たちは、中絶を行うその産婦人科から出てくる若い女の子たちに
「もう小さな爪は形をなしている」
と、呼びかけていた。
Mは始めて妊娠したときのことを思う。
1回目の診察では、まだ卵だったその子供は、
2週間後の検診では、小さな心臓を動かしていた。
そして、そのまた2週間後にはクリオネのような姿でMに合図を送ってきた。
「Hi, Mom」
そのときの興奮と感動をMは忘れられない。
生き物であるMが始めて、自分の体内に生きる命を認識した瞬間であった。
ぼんやりとしていた「生」というものが、痛いほどありありと感じられた。
今まで恋をして鼓動を感じたり、唇をかんで血の味を感じたり、
怪我や虐めを通じて痛みを感じたりしてきた。
今、Mの中には、すばらしいクリオネが生きていた。
その事実だけでMは女神になったような気さえした。
そして同時にアメリカの横断幕を思い出した。
「PRO-LIFE」
Mは当時、その横断幕を持った人々をばかげていると感じていた。
「もう小さな爪は形をなしている」
と幼さを残した少女たちに声をかけている人々を忌々しいとさえ感じていた。
「人には人の事情があるのだ。大きなお世話」と。
しかし、今、Mは自分の中に住む生命の心臓をその目で確認したのである。
爪でもなく、歯でもなく、本物の心臓を。
人はつくづく勝手なものだ。
Mからあふれ出た母性はとどめようがなかった。
今すぐあのアメリカの田舎の産婦人科に飛んで行って横断幕を持ちたい気分だった。
中絶には、初期中絶手術と中期中絶の2種類があります。初期中絶手術は妊娠12週未満、中期中絶は妊娠22週未満までです。22週を超えると中絶手術はできません。中期中絶は通常の出産と同じように分娩する必要があり、入院したり死産届を提出したりと、患者様の負担が大きくなります。さらに、初期中絶手術よりも中期中絶のほうが費用が高くなります。身体と金銭的負担が増すため、妊娠が発覚したら、できるだけ早くクリニックを受診してください。
Mは産婦人科の壁に貼られた紙を読んで吐き気がした。
一方で心臓の鼓動に祝福を感じる者がいて、一方には絶望を感じる者がいるのだ。
どちらも体内にある子供のことは無視して、主体的に自らの立場を祝福したり、絶望したりしていた。
Mは自分の順番が来ると医師に聞いた。
「堕胎はどのように行われるのですか?」
医師は驚いて、あわてて言い返した。
「Mさん、あなたは22週を過ぎてますから、堕胎はできないんですよ」
Mは真剣な顔をして聞き続けた。
「先生はどうしてあんな貼り紙をし続けているんですか?あなたは何人ものおなかの小さなクリオネを見たのに」
医師は哀しそうな愛想笑いをして、小さくため息をついた。
「細くて長いスプーンのようなもので掻き出すんですよ。その神聖なクリオネをね。逃げ回るクリオネを地獄の使者のように追いかけて、その小さなしっぽを捕まえるんです。この世で一番罪深い仕事ですよ。捕まっても何も文句は言えない」
Mは、人生で初めての深く、暗い絶望を見て取った。
なぜ数年前のアメリカで、横断幕の人々を忌々しいとさえ感じてしまったのか。
人間とはそういうものなのだ。
自分がありありとしたクリオネをおなかに宿さない限り、真に迫った意見や実感は生まれないのだ。
Mはおなかを抱え、胎児とともに世の中を憂いた。
あなたの産まれてくる世界はこんなにも物悲しい。
細長いスプーンで小さな命を掻き出すような世の中なのだ。
今さら気が付いても遅い。
すでに失われた命は数知れない。
「私が子供たちを守るためにできることは?」
Mは医師にそう尋ねた。
「あなたにできること?好きにしたらいいですよ。例えば、細長いスプーンを握れなくなるように僕の手をつぶすとかね。それが一番現実的で効果的かな」
「私はそんなことしないですよ。先生の手は赤ちゃんを取り上げるためにあるんですから」
Mはそう言った。
「私は作家志望なんです。作家志望ですから、もうそれしかないんでしょう?」
Mがそう聞くと、医師は手を上下に振って、
「作家志望ですか。それであればもう言葉を行使するしかないでしょう。クリニックの前で扇動するといいですよ」
Mはそのクリニックの前で、アメリカの田舎でいつか見かけた横断幕を持ち続けた。
「PRO-LIFE」
クリニックで貼り紙を見ている患者を捕まえては、言葉を探し、三日三晩かけて説得した。
でも、結果はほとんど変わらなかった。
少女たちのおなかにいる幼生たちの爪のことや、歯のことや、心臓のことを声高に主張した。
「もう小さな爪は形をなしている」
見知らぬ人が忌々しい顔でMを見下していた。
それでも実存を実感したMは強かった。
敵は細長いスプーンを持っている。
Mは細長いペンでそれに立ちむかうのだ。