◇「それ以上」のない詩
【詩の教室】にて 「文学」と「作家」への道(51)
7月から参加する詩人・松下育男さんの詩の教室(全6回)に行った。
西新宿のカルチャーセンター、4年近く通う「現代詩実作講座」と合わせ、12月までは月に2度、詩作講座に通う。西新宿のほうは来月たぶん欠席するだろうが、松下さんのほうはできれば来年以降も通い続けたい。
さて、今回は締め切り日を勘違いして遅れて作品を提出。毎回、提出順に講評されるが、僕の詩は25編提出のうち、ケツから2番目24番目になった。
新たな「書き下ろし」ができず、noteに投稿した過去作でスキが10以上ついた詩から見繕ったものだが、2年8カ月も前に投稿した「似た男」である。少しだけ以下のように手を入れて提出した。
作品ごとに、松下さんはかなり丁寧な批評、講評をしてくださるが、それをプリントしたものを教室終了時にくれる。
「いい具合に力が抜けていて それでいて印象的な詩になっている」
という感想をいただいた。
僕が目指すものはそれに尽きるのである。
ライト=light、軽いんだよね。
その点を、「目の前に現れた人が 昔知っていた人だと思った というだけの内容の詩だから これ以上 詩として無理に展開してもしかたがない (でも)『ああ そんなことも そんなときも ある』と 簡単に終わっている この終わり方が しつこくなくてよい」と、僕の心境を汲んでくれたような感想をいただき、うれしい限りである。
◇これでいいんですかね?
何か質問はありますか―と松下さんに問われ、「自分では、見たまま感じたままを一瞬で書いてきているが、時に『軽い 薄い 深みがない』と思われるようで、悩まないでもないのですが…」と聞いてみた。
すると、松下さんは「それに徹底して貫くことです、きわめてください」とおっしゃった(たぶん)。
ま、それでいいか。
これは、先週有った現代詩実作講座でも似たような傾向の詩「昼休みのスケッチ」
を出し、その時のことを「私の詩は軽い」と書いたことを踏まえての質問である。
そう、自分自身を受容していくのだ。