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社交辞令を信じる
社交辞令。
調べたら「つきあいをうまく進めるための、儀礼的な挨拶」とあった。
なんて表現なんだ。冷たいな(笑)。
私は社交辞令が苦手だ。
もちろん嘘っぽい挨拶は嫌いだし、褒め言葉も本心からそう思わないと言えない。
挨拶だけじゃない。例えば、
「今度、○○さんと××さんと一緒にご飯食べようよ」
「△△さんの家、大きくて楽しいから今度皆で行こう」
「今度またみんなで飲みましょう」
これ、みんな社交辞令だ。社交辞令だったんだ。
そんなこと、みんな知っていたのだろうか。
私は、長い時間かけて、ようやく気付いた。
ずっと、口約束でも純粋に信じて待っていたし、「その予定が叶ったらうれしい!」と本当に思っていた。
まさか”儀礼的なあいさつ”とは思わずに。
だから、「〇〇しましょう」の言い出しっぺの人から連絡があると、「あれ?あのお誘いかな」とワクワクし、「あぁ違った、別件だ」となっていた。
実際、何度か聞いたことがある。
「この前言ってたあの会、あれってホントにあるの?」
そうすると「ねー!そうそう!いつかやりたいと思ってる」などと返されるけど、それは永遠に叶えられることがない。
いろんな口約束が、叶えられなくなって、だんだんわかってきた。
これらぜーんぶ、社交辞令だったんだ、と。
私のような素直な人間(笑)、は、心の底から思う。
叶えないなら、社交辞令でも口約束しないでほしい。
叶える気がないなら、そもそも口にしないでほしい。
信じてしまうから。だから、社交辞令が嫌いだ。
私は、数年前にボランティアツアーで仲良くなった数名がいた。
3日間、まるまる行動を共にしたので、自然と親しくなった。
ツアーが終わる時に、連絡先を交換し、「近くに来ることがあったら連絡してね。ご飯でも行こう」と口約束。
今思えば、社交辞令だったのかもしれない。
やがて月日が経ち、実際に、私が近くに行く予定があったので、事前に連絡して夕ご飯に誘った。
それぞれ、個別での再会。2年くらいかけて、4人に会った。
みんなが共通して口にした言葉。
「今日は誘ってくれてうれしい。本当にありがとう。でも、まさか本当に連絡くれるとは思わなかった」
みんな再会を喜んでいた。
しかし、どの人も言った「まさか本当に連絡くれるとは」で、気がついた。
そっか、こういう時、人って、連絡しないものなんだ。
「だって、ご飯行こうって約束したじゃん、だから」と言うと「そうだけど、なかなか連絡する人はいない」と。
そんな経験も経て、「社交辞令」がなんとなくわかってきた。
前にいた会社の先輩が、当時こんなことを言ってた。
「〇〇さん(私のこと)、外国語ができるなら、みんなで海外旅行行こうよ。ツアコンして!案内して。楽しそう!みんなで行こー行こー!」
同僚も賛同して、「いいね!行こう、行こう!」となった。
私は、どう考えたって「絶対に叶えられない」と最初からわかっていた。
会社を畳む以外に、みんなで海外旅行なんて行けるわけないし。
そうすると、ウソでも「いいですねー」とは言えず、引いていた。
「この人たちは、社交辞令って自覚があって今言ってるのだろうか?そんな薄っぺらい話して楽しい?」と。
でも、実際ちゃんと聞くと、本当に行きたそうなのだ。
一応、社交辞令を言う人は、その時は「本気で思っている」のが共通点かもしれない。
だから、信じてしまう。社交辞令と本当の仮約束のどっちかわからなくなる。
叶えられない夢なら、社交辞令でも言わないで。
頭の片隅にでも、仮の予定として入れてしまうから。
また、逆に、自分の社交辞令で、人を待たせていないか、も気になる。
私が声をかける時は、本当に実現させようとしている時のみだけど、それが伝わらず、実際に誘うと、驚かれることも多い。
「社交辞令だと思われていたんだ!」と感じることばかり。
どれだけみんな社交辞令に慣れてしまってるんだろう。
私にとって社交辞令は、
受け身でも真に受けるし、自分からでも真剣に発信する。
儀礼的なあいさつ、では終われない。心がそれで片付けられない。
社交辞令との距離感。ホント難しい(>_<)
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