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ナメられるの定義

人からナメられている、と感じることはあまりない。

しかし、人に状況を説明すると「それは完全にナメられてるねー」と言われることがある。

ほう、これがナメられているということか。

新しい視点だ。

この視点を徐々に増やすにつれて「あれ?これは、もしかしたらナメられるのかも?」

と、少しだけ気付くようになった。

例えば、

バン!と肩がぶつかっても、何も言われなかったり。

年下の女の子が、大きな声で物申してきたり。

またそれが上から目線で、態度がエラそうだったり。

よく行く店で、長い時間待たされたり(私が待ってることを忘れられたり)。

長年の友人が、私の住所を紛失してたり。
それで年賀状送りたいから、と毎年メールで聞いてくるとか。
(これは過去に書いた)

ナメられてる…のかなぁ?

一つわかったことは、この「ナメられてる」「ナメられていない」という判断は、私にはどうも合わないということだ。

ナメる=見下す、なのか??

今の私に合わない考え方だから、根付かない。

一方で、日常的に、ナメる・ナメないを言う人がいる。

「あの後輩、完全にナメてる」

「いかにナメられないか、最初が肝心だよ」

「ナメられたら終わりだからね」

「舐めんなよ!」

などと。

日頃から、ナメる・ナメないを考えている人は、自分を優位に立たせるのが上手いと思う。心理戦には有効のようだ。

そういう人は、そうやって生きていけばいいと思う。

でも最近、私は「ナメられたっていい」と思っている。

思いたい人には、思わせておけ。なんて。

こう思うのも、理由がある。

20代の自分を振り返ると、あれは完全にナメていたからだ。

甘ちゃんだった。それがあるから今がある。

だからナメたい人は、ナメればいい。

先輩のことも、仕事も人生もナメていた。

20代そこそこで、全部わかった気になっていた。

あれから早何年。

今になって思う。

ナメきってた自分、恥ずかしい。何もわかっていなかった。

先輩の仕事は楽勝で越えられると思ってたし、人生なんてこんなもの、なーんて。

でも、先輩は想像以上に努力していたし、どの仕事も奥が深い。

人生だって可能性の宝庫。

20代で大半をわかった気になってたなんて、世界が狭かったと思う。

そこからの挫折と、成長で、ナメていた自分を反省した。
そんな過去があるから、今がある。

だから、私をナメたい人は、ナメていいよと思う。
ナメる=見下す、だとしてもOK!

結局、ナメられても、ナメられなくても、自分の価値には関係がないんだし。

この若者、ナメてるなー^^

と思っても、ナメんなよ、若者!とは言わずに、黙って見守る。

きっと、いつか気付く時が来る。

だから問題ない、と、その時を待っている私だった🤗








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まちの哲学者
本当にありがとうございます😊嬉しくて小躍り!!💖