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あるものを見る
あるものを見る。シンプルで好きな言葉だ。
ある~、のような仮定や架空を示す”ある”ではなく、存在の「在る」だ。
私が20歳くらいの時に、先輩から教わった、今でも心に輝いている言だ。
在るものを見る
簡単に言えば、無いものねだりをしないで、今自分が持っているものに目を向ける、という意味だ。
その先輩は、「在るものを見る」という言葉を日常的に使っていた。例えば昨日のテレビの話。
私 「昨日、先輩が好きな〇〇がテレビに出ていましたよ!面白かったなー」
先輩 「あ、その番組、最後の方だけちょこっと見たよ」
私 「最後だけかぁ…その前の、トークが面白かったんですよ。録画しておけば良かったな、貸してあげられたのに」
先輩 「いいんだよ。在るものを見るから。最後のエンディングが見れただけでも十分楽しかったから大丈夫^^」
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例えば、ご飯を食べに行っても。
私 「限定10食の、メニュー、売り切れですって!悔しい、食べたかったですねー」
先輩 「いいんだよ、在るものを見るから。さぁ何食べようか ♪」
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どんな状態も受け入れるという覚悟がカッコよかった。こうやって自然と哲学的な言葉を放つ先輩の影響で、この言葉が大好きになった。
在るものを見る、ってずっと私の中に生きている言葉だ。
今では日常で、合言葉のように思い出す。
「もっと大きなテレビを買えば良かった」→ いやいや、在るものを見るから大丈夫。
そんな物質的なところから、
「もっと早めに転職しておけば良かった」→ いやいや、在るものを見るから大丈夫。あれがベストタイミング。
「もっと美人に生まれたかった」→ いやいや、在るものを見るから大丈夫。顔は変えられないんだから、いいじゃん。在るものを見よう。
「もっと器用になりたい」 → いやいや、在るものを見るから大丈夫。器用じゃないから、自分らしいんだよ。在るものを見よう。
などと、肯定的な言葉で、今を受け入れる思いがあふれ出てくるのだ。
そう。すべてに、「今」が省略されているのだ!
「今、在るものを見る」ということだ。
今自分に在るものを認識して、じゃあその中で、今何ができるかを考える。
これがやはり「今ここ」を生きることにつながるのか。あんなに昔に先輩からアドラー的な考えを教えてもらっていたのか。うれしい。
そういえば、その先輩は、当時、いろんな貧乏デートの話をしてくれた。付き合っている人と、たった300円でデートを楽しんだと。お金がないから(訳あって二人で貯めているから)、いつもお金がかからないデートなんだ、と。
私はデート代300円ですか…(-_-;) となったのだが、「でも、300円でもね、お弁当作って二人でピクニックみたいに近くの土手に行くだけでも、とっても贅沢な時間なんだよ」ってニコニコ話してくれた。圧倒された。在るものを見ている究極形。少ないお金でも、たった300円でも。今在るものを見る。
「在るものを見る」という言葉を教えてくれた先輩、元気だろうか。会いたくなった。連絡先がわからないのが残念だなぁ。
先輩、元気ですか、私は元気です^^
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