ナメられてナンボ、最強の人
「ナメられたくない」とよく言う人がいる。
ふと私は思う。
そんな人生、ピリピリしていて楽しいのかな。笑
話を聞いていると、「ナメられているか、いないか」が重要な基準で、そこにばかりフォーカスしている様子。
ナメられたくない=馬鹿にされたくない。
そんなプライドを感じる。
私の友人が言った面白い言葉。
「すべての人は、誰かに馬鹿にされていて、同時に誰かを馬鹿にしてきている」
この“馬鹿にしている“と言うのは、悪口を言う、ということだけではなく、「あんな人いるんだ、かわいそう」と同情のような思いで、誰かを見ることも含む。
これを聞いた時、確かにそれって真実だなぁと思った。
あんなヒドイ態度を取る人、心が寂しいのね、かわいそう…とか、
あんな醜態さらすような人、あぁはなりたくないわぁ、とか
あんな犯罪を犯すような人よりはマシ、とか。
心のどこかで、かわいそうと思っている。それよりは上でよかったわ〜と自分の現在地を確認。
だから、これも、相手をナメている、馬鹿にしている行為の一部ではないか、ということ。
実際今、これを書きながら、「ナメられているか、いないか」の基準で生きている人、人生楽しいのか?かわいそう、なんて、若干下に見ている。笑
人は誰でも、誰かにナメられ、自分も誰かをナメているのかもしれない。
お互い様。
私にも、ナメられた経験は山ほど。
露骨に馬鹿にされたこと、ナメられまくった過去も多い。
その時は悲しかった。
それでも「ナメられているか、いないか」は今でも基準にしていない。
それは、どこかで友人の言葉が生きていて、「私も心のどこかで、誰かを馬鹿にしているし」と思えるからかもしれない。
だから私が馬鹿にされることもあるだろう^^、と思えるのだ。
人間誰でも「馬鹿にされたい」なんて思う人はいない。ナメられることを望んでいる人もいない。
だから私は、露骨にナメた態度を取らない。そう決心している。
でも「あなたが私を馬鹿にしたければ、すればいいさ♪」と思っている。
結局そう思える人の方が圧倒的に強い。
それが自信の表れとなって、プライドの塊の人には脅威に感じるのだろう。
目の前だけで「ナメられているか、いないか」を判断するのは、浅い。
本心は目に見えないのだから、尖っても精神の無駄遣い。ピリピリさせるだけ。
振り切って、馬鹿にされる人生を喜んで送る人が最強だ。
そんな最強な人になっていきたい。