酩酊物質たる〈暴力〉は、〈同時接続性〉によってサーカスになる。
暴力が酩酊物質に近い作用を持っており、それゆえに依存症的に歯止めが利かなくなるというのは歴史の証明することころだ。これは私に限らず多くの人が指摘をしているところだと思う。そして、同時に一定の条件がそろった時には、酩酊物質ゆえの歪んだ娯楽性が顔を出し、暴力が「パンとサーカス」でいうところのサーカスになってしまうのもまたよく知られている。
現在、アメリカではミネソタ州の州都ミネアポリスにて発生した白人警官の行き過ぎた取り締まり行為によって黒人男性のジョージ・フロイド氏が死亡した事件をきっかけに、警察権力の乱用と人種差別に対する抗議活動が勃発。瞬く間に全米各都市に拡がった。ここまでは、長年にわたって人種問題を社会問題として抱えるアメリカの、残念ながら「よくある風景」だが、抗議活動の勃発からおよそ一週間が経過し、各地でこの抗議活動が暴動・略奪の騒ぎに発展、ことによってはもはや抗議活動の本質などどこ吹く風の暴力事件に変容し始めている。さらに加えて言うならば、各種報道において抗議活動の側面がオミットされて、暴動や略奪の部分にばかり焦点が当たる、いわゆる〈サーカス化〉も著しい。これは、暴力というものが傍観する側においても強い酩酊性、言い換えれば快楽性を持っている証左だと思う。
この状況に対し、アメリカ大統領ドナルド・トランプは軍の出動による鎮圧を示唆するなど、市民と政府との間の軋轢も激化、もはや歯止めの利かない状況だが、いまアメリカは市民・政府いずれの立場も〈暴力〉という酩酊物質に酔ってしまっているように私には見える。そして、この集団酩酊の〈セッティング〉のキーになっているのは、「もう一つの酩酊物質」ともいうべき〈同時接続性〉ではないかと私は考えた。
まず第一に、今回の事件は現場に居合わせた市民のスマートフォンによって動画が撮影され、それが不特定多数の人間が〈同時接続〉をしてコミュニティを形成するSNSを通じて広く拡散・共有されたことで抗議の波が瞬く間に広がっていた。これは、たとえば北アフリカのジャスミン革命などとも同じメカニズムで、非常に今日的なものであると言える。
理不尽を目の当たりにしての抗議行動、という点において今回の動きはいたって健全なプロセスを踏んでいるが、一方で〈同時接続〉の中で動画が半ばコンテンツ的に広汎に共有され、それに対するリアクションも〈同時接続〉の中で表明・共有されたことでエコーチェンバー効果が発生する形でプロセスが進行したためにその熱量が過剰にヒートアップしてしまった。そこに加えて理不尽への抗議という「どこまでも正しい動機の付与」も手伝って抗議活動が一種の全能感を伴う酩酊状態に陥り、それを大義名分にした暴動・略奪といった本来のイシューから逸脱する行為に至ってしまったのが、今回の問題の本質だと私は考える。これは、酩酊物質依存による自己正当化の作用に極めて近しい。
また、これもすでに広く言われていることだが、2月の末から世界中の市民活動を大きく制限・停止させたコロナウイルス禍による抑圧とその揺り戻しが過度な集団酩酊の状態を作り出す一つの要因になったのも間違いなさそうだ。ロックダウンやその他市民活動ないし経済活動の自粛命令・要請が奪った主たるものは〈同時接続性〉であることは、我が国における一連の自粛生活からもお分かりいただけるかと思う。元来、社会を組織する形で群れを成す=同時につながることが人間の習性であり、その習性を抑え込まれたあとに〈同時接続性〉に訴えかけるような事件が起こったことは、あまりにもタイミングが悪かったと言わざるを得ない。
加えて、コロナウイルス禍による経済活動の大きな落ち込みである。社会福祉のいきわたっていない層の市民にとって、現在の状況が命にかかわるものであることは言うまでもない。暴動・略奪は当然犯罪行為なので、このような行為に及んだ場合には治安当局により逮捕され、司法当局により刑事罰を言い渡されるリスクがある。そこで有罪判決を受ければ、収監などをはじめとした大きな社会生活の制限を受けるとともに、前科者のレッテルを張られて、刑期明け以降においても社会生活の制限が続く。ゆえに、市民はそのリスクを当然避け、平時はこのような過激な暴力行為に及ぶことはない。だがしかし、もしも、姿勢で暮らすよりもむしろ逮捕・収監されて「塀の中」にいたほうが暮らし向きがよくなる、というところまで社会福祉の不備が進行していたらどうだろうか。わが国でも経済的困窮による累犯障害の問題があるが、かの国ではこの問題の度合いが我が国とは比べ物にならないほど大きいようである。もともと自己責任論の強い社会ではあるが、それゆえに発生したひずみをコロナウイルス禍とそれに伴う揺り戻しが暴き出したのがいまのアメリカの実情なのではないだろうか。
そこに来て、デモ活動あるいは集団での暴力行為という極めて〈同時接続性〉の高い行動がさらに酩酊を加速させてしまったのである。前述の通り、既に本質を逸脱した暴力までもがこの全能感によって当事者の中で正当化されてしまっており、依存症としてはかなり重症なところまで来ている。この状況を鎮静化させるのも〈同時接続性〉の高い何かによるカウンターショック、ということになってくると思われるのだが、果たしてそういった「何か」を今のアメリカ政府は持ち合わせているのだろうか…。まあ、ないだろう。一方で、膝をついて抗議の意を示すポーズが一部警察官と市民の間に共有され始めているが、もしかしたらそれが事態解決のための〈同時接続〉のアイコンとなるかもしれない。そして恐らく、それが唯一の突破口になるような気がする。
こういった事象の予防策は何かないものかと考えたとき、〈軽度の同時接続の機会〉の提供による一定のガス抜きあるいは予防接種が思いつくが、その視点で考えると先日のブルーインパルスによる展示飛行のような視覚効果の面で非常に〈同時接続性〉の高いコンテンツの提供は、実は馬鹿にならないものだと言えるのではなかろうか。もちろん、すべての人間が肯定的に受け入れたわけではないのは百も承知だが(そんなものはそもそもない。ないものねだりは分別のない子供だけにしてほしいものだが、だからこそ「医療従事者云々」というやや後付け感のある大上段の理由付けが必要だったのだろう。)、市民感情のコントロールとしてはなかなかの深謀遠慮だな、と私は思った次第である。