「まち」からみた公共施設
庁舎(などの公共施設)はまちの中心?シンボル?
全国各地の公共施設等総合管理計画や、自治体の職員・議員と話したりするなかでよく目にする・耳にするのが「庁舎(などの公共施設)はまちのシンボル」「賑わいづくりの中核を担う」といった言葉です。
「有利な起債」による庁舎整備
九州地方の支援させていただいたある自治体では、4市町が合併したことや2016年の熊本地震で庁舎が大きなダメージを受けたことにより、当時、新庁舎の整備が計画されていました。
山間部の支所やまちなかの公民館・ホール等は相当に老朽化し、十分な投資がなされていません。そのようななかで計画中の庁舎は、人口規模から大きくかけ離れた豪華なもので、さらに基本計画から基本設計と進むプロセスで規模は拡大の一途を辿っていました。
自分も公務員時代に、東日本大震災で被災した姉妹都市の相馬市に延べ1ヶ月間派遣されていた際に、緊急時の本部機能としての庁舎の重要性は十分に感じていましたし、「災害に強い」庁舎を整備することに全く異論はありません。
しかし、この自治体での基本計画等では「まちのシンボル」として立派な庁舎を整備すること、イニシャルコストだけで100億円以上がかかることが記載されていました。そして、その事業費は市町村役場機能緊急保全事業を活用するので、自治体の財政負担は極めて少なくて済むという理論でした。
それぞれの自治体の生き方であり、様々な事情を考慮したうえでの総合的な選択なのでしょうから、こちらがどうこういうことではありませんし、否定するものでもありません。確かに、一義的には市町村負担を抑えながら巨大な庁舎を整備することができるので、合理的な方法だとは思います。
全国各地で近年、整備されてきている豪華な庁舎は、この緊急保全事業を活用しているか、それ以前のものであれば合併特例債を活用したものが大半を占めています。このあたりに、予算書に計上される一般財源のみがフォーカスされる単年度会計現金主義の自治体経営に与える闇の一端が感じられます。
しかし、建築物の企画から設計・建設・維持管理運営・改修・解体に至るまでにかかるコスト、いわゆるLCC(Life Cycle Cost)で考えると、イニシャルコストはLCCの20〜30%程度にしかなりません。この維持管理運営等のコストは国や誰かが負担してくれることはなく、整備主体となる自治体が自ら調達していくことになります。
少子・高齢化、市民ニーズ・行政サービスの多様化・高度化、社会経済情勢の変化等により、自治体の財政が厳しさを増すなかでは十分な維持管理運営等のコストを確保することは現実的に不可能です。その証拠として、全国各地で公共施設の老朽化・陳腐化が深刻なまでに進行し、徐々に市民の生命・財産・日常生活に支障をきたす事故が発生しているのです。
庁舎≒お城?
庁舎(や巨大な図書館・公民館等)の整備では、「まちの活性化の起爆剤」「中心市街地に人を呼び戻す」「賑わいを創出する」といった目的が掲げられ、そのまちの中心部に計画されることが多いと思います。
確かに地方自治法でも庁舎(←地方自治法では「庁舎」ではなく「事務所」と位置付けられています)の整備に当たっては次のように定められています。
第2項で「住民の利用に最も便利であるように」との位置に関する配慮事項と第3項において、いわゆる位置条例が特別議決の対象になっています。こうした地方自治法の趣旨を考慮して、まちの中心部に庁舎を整備する自治体も確かにあるかもしれません。
ただ、地方自治法が施行されたのはなんと1947年です。戦後の焼け野原の時代、地域公共交通網も現在と比較して圧倒的に少なく、インターネットももちろん全くない時代の概念です。
時代はそこから75年が経過した2022年です。実際に渋谷区では「誰もこない庁舎」を志向しています。スマートシティ、DX、Society5.0といった流れやメタバースの進化などを考えれば、庁舎(をはじめとする公共施設)が「まちの中心」にある必然性は相対的に薄くなっているはずです。
そもそも、前述の地方自治法第4条第1項で庁舎は、「事務所」として明確に定義されています。公用施設としての庁舎は、市民が集ったり何らかの福祉の向上のためのアクティビティを公共サービスとして提供する「公の施設」ではないのです。粛々と事務を行うところが庁舎であり、もちろんクリエイティブ・前向きにまちのために働くことは大前提ですが、まちの経営の裏方を担えば良いはずです。
しかし、残念ながらいまだに「庁舎≒お城」の既成概念が支配している自治体が多く残っているように感じます。だからこそ、各地で庁舎で提供する「公共サービスの質」ではなく、どのような「ハコモノとしての庁舎をつくるのか?」が争点になってしまうのではないでしょうか。
規模は何㎡にするのか、構造はどうするのか、どのような設計者に頼むのか、フロア構成はどうするのか等、ハコとしての議論ばかりになっていないでしょうか。
まちの中心
公共施設等総合管理計画における公共施設
2014年に総務省から全自治体に要請された公共施設等総合管理計画では、事務連絡の概要で次のように記されています。
更に計画策定にあたっての留意事項では次のように記されています。
ここで「統廃合の推進方針」や「数値目標の設定」が記されていることや、旧来型の行財政改革が事務事業・人員・コスト削減といった縮減一辺倒であった行政の文化、この時期に総務省やコンサルタントが行ったセミナー、更にはさいたま市のハコモノ三原則などの影響により、なぜか「公共施設マネジメント≒施設総量の縮減」といったイメージが多くの自治体で浸透してしまったと思います。
このあたりの論点については、拙著「PPP/PFIに取り組むときに最初に読む本」でも詳しく取り上げていますので、ぜひこちらもご覧ください。
本来は、それぞれの公共施設で提供しているサービスが投資・コストに対するパフォーマンスを発揮しているのか、民間サービスとの重複や代替可能性、周辺の人口動態・民間施設の立地状況、公共交通機関や道路網など「まちのなかでの公共サービス」の視点が必要なはずです。更に、これらと自治体経営との関係を整理しながら「まちを再編」していくことが本来、公共施設マネジメントとしてやるべきことだったのではないでしょうか。
また残念ながら、ほとんどの自治体の公共施設等総合管理計画では行政が保有している施設しかプロット、議論の対象になっていませんが、本来はそのまちにある民間ストック・サービスや都市計画などの様々なレイヤーを重ねて検討するはずのものです。
この点については、こちらのコラムもご覧ください。
このように、総務省・学識経験者・コンサルタント等のミスリードの影響もあったのかもしれませんが、公共施設マネジメントにおいて公共施設を「行財政改革の一環として削減対象となる負債」として捉えてしまってきたことに大きな問題があるように感じます。
全国のまちを考える
公共施設が「まちのシンボル」に本当になっているのでしょうか。
いくつかのまちを考えてみたいと思います。以下「自治体名_まちのシンボルとしてイメージできるところ(そのエリア内の公共資産かつスポットになっているところ)として考え見たいと思います。
札幌市_すすきの(大通公園)
仙台市_国分町、定禅寺通り
金沢市_東茶屋街、西茶屋街
富山市_総曲輪(キラリ)
姫路市_姫路城(姫路城)
松山市_道後温泉
福岡市_天神(アクロス福岡)
熊本市_熊本城、上通、下通(熊本城)
鹿児島市_天文館
那覇市_国際通り
この他、例えば港区で考えると六本木、新橋などエリアごとに全く異なるまちの顔を持ちますし、横浜市ではみなとみらい、元町、中華街、野毛など近接するエリアでも全くその成り立ちやエリアのコンテンツは異なります。
このようにマクロな視点で「まち」から考えたとき、公共資産がトップに位置づけられることはほとんどないと言っても過言ではないでしょう。
「武蔵野市には武蔵野プレイスがある!」といっても、それはこの分野で仕事に関わっている人が中心であって、一般的には武蔵野市といえば吉祥寺でしょう。
「紫波町はオガールがまちの中心になっている」、確かにそうだと思います。そのオガールの中核となっているのは、図書館と民間施設の複合施設オガールプラザ、広場、体育館・宿泊施設等のオガールベース、パン屋・アウトドアショップ等のオガールセンターでしょう。
紫波町役場は駅から一番離れたところに配置され、何らかの用事がある人が訪れる場でしかなく、決してまちのシンボルとはなっていません。(視察ではなく)オガールを訪れた人たちのなかで、意気揚々と庁舎を見にいく人がどれぐらいいるのでしょうか。
冷静に考えてみれば、そのまちを訪れるときに庁舎がどこにあって、どのような建築物になっているかイメージできるでしょうか。
そこに住んでいる市民にとっても同じです。庁舎が立派だと嬉しい市民はどの程度いるのでしょうか。庁舎に行く用事がある人は、いかに早く、シンプルに手続きを終わらせることができるのか、そうしたサービスの質が重要であって、意匠や構造を重視している人はどのくらいいるのでしょうか。
全国のどの自治体を見ても「公共資産がまちのシンボル」であることは、姫路城のような圧倒的な歴史・文化・価値等に起因するレアケースしかないのではないでしょうか。
まして、公共資産のうち「庁舎」がまちのシンボルになっているまちはどこにあるのでしょうか。また、そうした真っ先に「そのまち≒庁舎」というイメージを抱かれるまちがあった場合、本当に豊かなまちなのでしょうか。
公共施設がまちの機会損失?
「公共施設はまちのシンボル」として、駅前などの一等地に公共施設を整備する事例が多くなっています。
自分も公務員時代、つくばエクスプレスの一体型土地区画整理事業で集約換地された流山おおたかの森駅の北口の市有地1haに公共施設(ホール)を整備するプロジェクトに若干関わりました。
当時、豊島区役所が流行っていたこともあり、市有地の一部を定期借地権で貸し付け、一部を分譲の集合住宅に売却することでホール整備に必要なイニシャルコストを等価交換により調達することとなりました。
https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/reform/committee/280201/shiryou1_2.pdf
実際にこうした手法でホールの整備は完了したわけですが、この周辺エリアをみてみると、東神開発がおおたかの森SCを中心に順次整備してきた南口と比較して、エリアの価値には大きな隔たりがあるように感じます。
最近、メディアでの露出も多い流山市ですが、その紹介VTRで利用されるのはもっぱら南口であり、北口の市有地活用プロジェクトが紹介されることは皆無に近いといっても過言ではありません。
また、北口の市有地活用プロジェクトでは、10年間のホテル用地の地代減免措置やホールの指定管理委託料が約1億円/年になっていることなど、エリアの価値が十分に上昇しないだけでなく、自治体経営の側面からも課題があるように思います。
豊島区では南池袋公園、池袋西口公園、中池袋公園、IKE・SUNPARKという池袋駅近くの4公園をエリアの地域性を活かした形で活用しています。点として都市公園の価値をあげるだけでなく、周辺の商業施設のテナント構成が変化し、道路空間等を活用した多様なコンテンツが展開されるなど、まちの魅力向上やビジネス、エリアの価値が大きく向上しています。
尾道市でも港湾倉庫をリノベーションした複合施設、ONOMICHI U2が強烈な個性を放ち、商店街では次々と個性的なテナントがオープンしています。
このようにみてみると、まちの中心に位置する公共資産がまちにとってプラスに作用するのであれば、まさにまちの「資産」としての価値が非常に高いですし、行政も投資する価値があるでしょう。
一方で、まちの中心部に整備する公共資産がまちの魅力に繋がらなければ、一等地の利活用の意味がないだけではありません。民間が当該地を所有していれば入ってくるはずの固定資産税・都市計画税や法人税などの税収も消失しますし、そこでのビジネスが展開されることによって生じる雇用やまちとしての勢いを得る機会なども喪失するわけです。
つまり、まちのポテンシャルを十分に引き出すことができない公共施設・資産がまちの中心部にあることによって、そのまちには大きな機会損失が生じてしまい、その公共施設はまちにとっての「負債」になってしまいます。
求められる「まちの再編」
イケてるところ探しWS
まちみらいで支援させていただく自治体では、最初に職員研修と合わせて「まちのイケてるところを探す」ワークショップを実施することが一般的なプログラムになっています。
1/10000の白図にそのまちの「美味しいお店、綺麗な店員さんのいる店、夕日が綺麗に見えるスポット」などを書き込んでいきます。観光ガイド等に記された一般的な情報ももちろんプロットして良いのですが、そのまちに住んでいる・生活している・就業している人でないとわからないホンモノの地域コンテンツを洗い出していきます。
2022年1月現在、約20の自治体でこのプログラムを実施していますが、共通して見出されることが2つあります。
「意外とそのまちの職員が自分のまちを知らないこと」と、「行政が集中投資してきたエリアとまちなかのイケてるところは驚くほど一致しない」ことです。
まちへ出ずに、庁舎のなかで感覚的に、これまでの慣例や政策の延長で、議員や一部の声の大きい人たちの声を「市民の声の大半」と錯覚して、まちの政策を考えてしまうから、イケてるところとリンクしないのです。
イケてる人たちは自分たちのモチベーションで必死に動いています。行政のためには働いていません。庁舎に篭っているとイケてる人たちと巡り合う機会はほとんどないでしょう。
だからこそ、最初にそれぞれの自治体の職員の方にお願いするのは「名刺ではなく自分の金を持って、まちで散財すること」です。そうして、自分の目と体と心とお金を使ってまちを知ることで、本当のまちの姿が見えてきます。
それが、まちを再編していく第一歩となるはずです。
そして、このワークショップはオママゴトでやっているわけではありません。そうして見えてきたまちの本当の姿をベースに、地域コンテンツ・プレーヤーとリンクしたリアルなプロジェクトを創出していくために実施しています。
公共施設の再編ではない
ザ・公共施設マネジメントの概念では、下図のようなことが想定されています。
老朽化した公共施設を解体したり譲渡しながら使える公共施設に集約したり、新しい公共施設を建設し、周辺に存在する公共施設を複合施設として整備することが概念とされています。
この概念では、「行政の所有するハコをどう少なくするか」だけが論点となってしまい、悪い場合には「既存施設の中間に新しい施設を作ればみんな平等になるんじゃないか?」との論理が働きます。周辺のまちの特性やその施設で提供するサービスの種類、利用者の属性などは考慮されず「従前の利用者が少しずつ使い勝手の悪くなった新しいハコモノ」が、多額の税金を使って整備されてしまうのです。
そして前述のように周辺エリア(や跡地)の価値も場合によっては下がってしまい、公共施設を再編することで自治体の経営状態を悪化させる負のスパイラルを自ら構築・助長してしまうのです。
ビジョン・コンテンツから考える
老朽化、機能の陳腐化や財政状況の悪化は、確かに公共施設の見直しの契機になりますし、そのチャンスを逃さずに使っていくことは重要です。
そのときに重要となるのは、これもしつこいくらい繰り返していますが「ビジョンとコンテンツ」です。
何のためにやるのか、そのプロジェクトで何を叶えたいのかというビジョンを「みんな・賑わい」などの曖昧な用語を排除して整理・共有し、それを実現するためのコンテンツ(≒誰が・何を・どういう頻度で・どのような収支で行っていくか)を具体的にセットアップしていくことです。
この具体的なコンテンツをセットアップするためには、自分のまちにどのようなプレーヤーがいるのか、そのエリアがどのような特性を持っているのか、何が今求められているのかが見えていなければできません。だからこそ、日常的にまちとリンクすることが重要なのです。
ザ・公共施設マネジメントの定量的なデータももちろん判断材料の一つにはなりますが、非合理的な行政の特性、そして多様な顔と時間と共に大きく変わっていく「まち」という定性的な観点も含めた鋭い経営判断が必要となります。
これらを精査したうえで用途地域・財源・関係法令などの物理的な要素やステークホルダーとの約束などの諸条件を丁寧に整理しプロジェクトとして構築していくことが、結果的に公共施設の再編につながっていくのです。
まちの再編とは
まちというマクロのレベルで見れば、求めるまちの姿≒ビジョンを具現化していくコンテンツのひとつになりうるのが公共資産です。
公共資産は「点」としてあるだけでは意味がありません。近年、Park-PFIの名のもとに都市公園の利活用が全国各地で進んでいます。しかし、そのなかには行政が何十億円もかけて基盤を整備し、年間数十万円の歳入しかならないナショナルチェーンのカフェを設置管理許可で設置する事例も増加しています。利便施設としてのナショナルチェーンのカフェは便利であることは間違いありませんし、「賑わっている」ように映るかもしれません。
公園周辺の地元カフェと同じような価格帯・品質のコーヒーを提供してしまうと、利用者が事前にセットアップされ、豊かな屋外空間を持つ公園内のカフェに流れてしまい、公園周辺のカフェを潰してしまうかもしれません。このように人の流れが変わることによって、周辺の飲食店・物販店・事務所なども潰れたり移転してしまうかもしれません。ここにも小さな負のスパイラルが発生してしまいます。
都市公園内にセットアップするコンテンツは地元資本が望ましいですし、当然に周辺の客単価・メニュー・客層とは全く異なるものを提供すること、つまり地元のイケてるものを高価格帯で提供することが求められます。そうすることで、先ほどの負のスパイラルを抑止するだけでなく、こうしたビジネスに呼応したプレーヤーが集まったり、既存店舗も刺激を受けて魅力的なサービスを提供する正のスパイラルを組成できるかもしれません。
この話は都市公園に限った話ではありません。重要なのは、そのエリア・まちに「住みたい・ビジネスしたい・何かしたい・行ってみたい・あの店で食べてみたい・買ってみたい」等のモチベーションをどれだけ持ってもらえるかです。まちなかでいろんな人たちがビジネスをしたり住んだりすることで、市民税・法人税・都市計画税・固定資産税等の税収が発生します。また、これが連鎖していくことで税収も増加していきます。
行政がやるべきことは「ザ・公共施設マネジメント≒短絡的な施設総量の縮減・集約・複合化・長寿命化」ではなく、そのまちの新陳代謝を高めていくこと、地元企業・プレーヤーが(落下傘型の公共事業ではなく、自らのビジネスモデルで)儲かるようにしていくことです。そのときの媒介のひとつとして、公共資産が利用できる場面もあるかもしれません。
こうしたところでも、どれだけ「まち」のことを知っているのかが問われるわけです。コンサルタントに丸投げしたり、他自治体の事例を劣化コピーしたり、「やってます行政」でなんとなくカフェを公園に入れてたり短絡的にハコを統廃合しているだけでは、まちの再編にはつながりません。
地域の持つポテンシャルやコンテンツを日頃から把握し、プレーヤーと腹を割って話せる、プロジェクトを進められる信頼関係を構築していくことが、まちの再編の基礎となるわけです。
同時に行政は、そのまちの未来を担う子どもたちへの投資、安心して生活できるための福祉関連事業、地域の高齢者等の楽しみの場である小さな公民館なども守っていかなければいけません。
そのためには金が必要です。
国に頼れる時代ではありませんし、手を拱いていても誰かが助けてくれることはありません。ましてや「シンボルとしての公共施設」は、こうしたリアルな現実に対する魔法にも処方箋にもなりません。
まちの新陳代謝を促し、まちを再編していくこと。
ゴールはありません。
時代の猛烈な変化に呼応しながら柔軟に何でもやっていく。
その姿勢とアクションがそれぞれのまちに求められています。
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