【連載企画】竣工即負債#04〜単年度会計現金主義の思考回路(その2)〜
前回と今回の概要
前回(竣工即負債#03〜単年度会計現金主義の思考回路(その1)〜)では、公共施設整備の企画段階から工事請負に至るまで、「なんのために」がほとんど議論されないまま「なんとなく」意思決定されてしまっていることを指摘しました。
今回は、竣工後の予算を中心とした流れと旧来型行政の予算の問題点について考えたいと思います。
竣工後の公共施設関連予算
指定管理委託(or各種保守点検・維持管理業務)
PFI法に基づくPFIやDBOなど「運営(≠経営)」が当初の事業契約に含まれる場合は、この前の段階で運営事業者や各種保守点検・維持管理業務などの事業者がセットアップされています。そういう面では、行政として(仕様発注に近い形ではPPP/PFIの本来のクリエイティブさはないかもしれませんが、)「契約期間内」は一定程度の管理・運営の質が担保されます。
一方で従来型やDBなど工事請負契約で区切りがついてしまう場合は、#03で述べたように行政として「終わった」事業としてみなされてしまうことも多く、同時に工事請負費でそのまちの身の丈を超えた支出をしてしまっている場合などは、十分な管理・運営の予算が確保できにくくなってしまいます。
こうしたことから、指定管理者の選定ではプロポーザルで価格点が最優先事項とされ、サービスの質が余計に落ちてしまいます、同様に運営事業者の選定にあたっても仕様発注の一般競争入札がベースとなり、いかに安くするのかが応札者の判断基準となるのです。(指定管理者制度は本来、非常に自由度の高い仕組みでコスト削減・代理執行の仕組みではないのですが、ここを勘違いしている自治体では上記のような思考回路・罠に陥ってしまいます。)
身の丈を超えたハコモノを整備してしまい、本来はスタート時点であるはずの竣工時に余力が残っていないから「安かろう・悪かろう」になってしまい、まさに竣工即負債の構図に陥ります。この負のスパイラルもそのまちが自ら発生・増長させているだけなのです。
修繕・工事・大規模改修
上記のようなことから、運営・保守管理が適正に行われない(愛されない)構造となってしまうので、当該ハコモノも理論値より早く劣化・陳腐化していくのですが、もはや竣工即負債として「負債」扱いされてしまっているので、そのことにすら気付くのが遅れてしまいます。
運営・保守管理費すら適正に予算計上されないので、同様に修繕費も十分に確保されることはありません。床のワックスがけ、ビスの増し締めやドレン周りの清掃といったビルメンテナンスの基本すら十分に行われず、防水シートがめくれあがったり、外壁のクラックが拡大して、甚大な雨漏り・鉄筋の爆裂などを招きます。
市民にも設置者たる行政にも愛されないハコモノには、厳しい財政状況のなかで必要十分な改修・更新の工事費が予算として与えられる可能性も低いでしょう。
現在、全国各地の公共施設が老朽化・陳腐化しているのに放置されているのは、このようなロジックがあるのではないでしょうか。
解体
このように「愛されない」状況が続くと、そのうち当該ハコモノは「本当にいらない」ものとなってしまいます。
「いらない」からといって、簡単にハコモノを捨てることはできません。公の施設であれば設置及び管理に関する条例を廃止する必要があり、議会の議決をとらなければなりません。補助金・交付金を活用した施設であれば、補助金の返還や包括承認制の手続きが求められます。(未だに包括承認制を理解していない自治体も残念ながら多く存在します。)
前段では、市民・議会への説明や庁内の合意形成などもしなければいけないため、「メンドくさい」から休止したまま放置されたりします。まちのなかに廃墟となったハコモノが鎮座することでエリアの価値は下がり、地域の人たちも活力を喪失していくのです。
このような未来が感じられない中で(除却債もありますが)一般財源で解体予算を計上し、関係者の理解を得ていくことは困難を極めることとなります。
旧来型行政の予算の問題点
ここで、これまでの議論を少しプロセス・予算という観点からまとめておきたいと思います。
いきなりゴール
これまでの公共施設の整備事業は、庁舎・図書館・公民館・道の駅。。。どれも1回の工事で完成形を建設します。
前段で述べたように、時には経営感覚がを持たないまま身の丈を超えたハコモノを補助金・交付金や起債を活用して整備してしまいます。「いきなりハコモノというゴール」を目指して全精力を注ぎ込みますが、ビジョンやコンテンツが整理されることなく「なんとなく」建ててしまったので、何かしようとしても図体が大きすぎてコントロールできず、ハコモノを持て余してしまいます。
更に、ゴールしたのでプロジェクトを検討してきた組織・体制は解体され、施設所管課に業務が移管されて日常の運営へ移行します。人事的な並行移動・引き継ぎがされない場合も多く、どのような経緯を経てきたのか、そのプロジェクトの趣旨はなんなのかといったことも置き去りにされ、形式的なハコモノ管理に落ちていくのです。
キャップをハメない
#03から今回の前半で述べたような思考回路で、「なんとなく」総花的・抽象的な計画をベースに「みんな」の意見を反映してハコモノ整備を検討してしまうのですが、その間にLCCベースでの投資額やそのプロジェクトから得られるリターンとの関係が真剣に考えられることはありません。
「みんなの声」を単純に積み上げて、それを丸投げの設計業務委託やアドバイザリー契約へ流してしまうので、ビックリするようなハコモノ整備費となってしまいます。だからこそ、後段でも示すように余計に補助金・交付金や起債に依存してしまうことになるのです。
民間であれば当たり前ですが、プロジェクトには収支計画が必要です。収支計画どころかハコモノに充当する予算すら見えていない、キャップをハメないなかで「なんとなく」プロセスは進んでしまうことが大問題なのです。
一般財源にしか関心がない
行政の予算は#03で述べたように「単年度会計現金主義」です。
当該年度の歳入・歳出が当該年度の計上した事業の枠内に収まっているのか、そのなかでも一般財源が最大の関心事となります。
極端な言い方をすれば「一般財源のみが予算」であり、補助金・交付金や起債は補助財源としての位置付けでしかなく、自分のお財布・家計の対象外といった感覚です。自分も公務員時代、恥ずかしながらこうした感覚を多少は持っていたように思います。このあたりが経営感覚の欠如そのものの一端ではないでしょうか。
更にいえば「単年度会計」なので、そのハコモノが将来にどれだけの負担を及ぼすかといったことはハコモノの検討をしている段階では議論の俎上にすらあがることもありません。
補助金・交付金
「有利な補助金・交付金・起債を探してこい」公務員であれば、毎日のように聞く言葉でしょう。
未だに「補助金・交付金を取ってくるやつが優秀な公務員」といった感覚を持った首長・幹部職・職員・議員も多いと思いますが、#03でも述べたようにほぼ全ての補助金・交付金はイニシャルコスト(の一部)にしか充当てきません。
補助金・交付金や起債によって過大な施設規模となってしまったハコモノは、そのボリュームに応じたランニングコストが必要となります。「有利な補助金・交付金」だったはずが、結果的にはそれ以上の一般財源の負担がのし掛かってくるという笑えない現実は多くのまち・ハコモノで経験しているのではないでしょうか。
追加投資・損益分岐点がない
公共施設整備は「いきなりゴール」をベースとして、そこまでにヒト・モノ・カネ・情報といった経営資源を全精力を使い果たしてしまいます。
(大半の)PFI法に基づくPFI、DBO、リースなどは契約期間内の「仕様発注に近い」管理・運営のグレードは担保されますが、時代の変化に応じた追加投資などが契約で位置付けられていることはないと思います。
同様に、PPP/PFI事業の評価は(一部で)SIBやESCOなどのようにサービスの質に応じた支払い条件が設定されることもありますが、ほぼすべての評価は曖昧な「モニタリング」で済まされてしまうのではないでしょうか。
この条件を下回ったら当該公共サービス・事業から撤退するといった損益分岐点が設定されることもないと思います。
PPP/PFI事業ですらこのような状況なので、従来型・直営の施設では時間の経過とともに社会経済情勢や市民ニーズから乖離していくとともに、劣化や陳腐化が進行しても手を打つこと(選択肢)がないので、余計に愛されないハコモノとなってしまいます。(更に著名な設計者・設計事務所の場合には、改修や用途変更の際に事務所へお伺いをたてなければならないなど、恐ろしいしきたりも存在します。)
アラートが発生しない
旧来型のハコモノ公共施設は、ビジョン・コンテンツが曖昧なままで「なんとなく」整備され、(中途半端なモニタリングのみで)その収支計画も作られることはほとんどありません。
結果的に、施設が共用開始されて想定どおりに「みんな」が集い「賑わい」が発生しないことが「なんとなく」実感できたり、議会等から指摘されてもなんとか取り繕い、ごまかし、延命措置に走ってしまいます。
瞬間風速的なイベントを連発したり、リーシングがうまくいかなかった床を公共施設(や既得権益の団体の事務所等)で無理やり埋めたり、減免措置を拡大してみかけの利用者数を増やしたりしてしまいます。
これらの行為のタチの悪さは、新しく税金を投下したり、本来入るべき歳入を削ったりと、収支計画をマイナスに触れさせ、挙句の果てに竣工即負債となっているハコモノを現行のまま延命化してしまうことです。
このように行政が体裁を維持するために筋の悪い行為を繰り返していると、その行為・金額が蓄積すればするほどそうしたコストを表面に出すことが難しくなってしまいます。「墓標」が墓標と言われる所以です。
当初から曖昧な形で、お花畑・総花的な世界で「みんな」の総意として「なんとなく」やってきてしまったから、少しでもおかしな事象が発生したときに「アラートが発生しない(させない)」のです。
民間のプロジェクトであれば、様々な場面で常にアラートが発生し続け、日々の経営改善を行なっているはずです。
総事業費で検討されない
「ハコモノをどうやって調達するか」だけが関心事となり、有利な補助金・交付金・起債に依存して「イニシャルコストにおける一般財源の負担額(orPFI法に基づくPFI等では当初の契約額における一般財源)」のみが予算的な判断指標となってしまいます。
フルコストベースかつLCCで考えれば、ハコモノによってそのまちの財政を硬直化(悪い場合には破綻)させかねないのに、前述と同様、ここでもアラートは働きません。
更に問題なのは、その提供するサービス1件あたりに換算した場合にどの程度のコストが必要となるのか?といったことも検討されないのです。
ある小規模な自治体では、給食センターをPFI法に基づくPFIで整備すると1食あたり数千円のコストが必要になることが判明しました。それだけのコストがかかるのであれば、別の方法で昼食(≠給食)を提供できる可能性も検討できるはずです。
変化を許容しない
まちは常に現在進行形で変化し続けます。
当然ながら提供する公共サービスも時間軸に合わせて変化していくことが必要ですし、物理的にも時間とともに劣化・陳腐化が進行します。
常識的に考えれば長期にわたる契約では、契約変更がついて回ることが自然ですが、行政は契約変更≒プロジェクトの変化を嫌います。庁内の理解だけでなく、案件によっては議会の議決(や市民への説明)が必要になるので、その手間を嫌がるのです。一般的な当たり障りのないサービスに終始してしまう習性も、このあたりに原因の一端があるのかもしれません。
どうしても変化が必要になった場合に、最悪のパターンは(契約変更やそれに伴うサービス料の見直しを行わず)民間事業者にそのリスクを押し付けてしまうことです。
時間の経過とともにまちとハコモノ(竣工即負債)の乖離は拡大し、愛されないだけでなく打てる手が減っていくのです。
次回
ここまでは竣工即負債となる原因、「失敗の本質」を論点としてきましたが、次回は「ではどうするか?」をポジティブに考えたいと思います。
ただし、第1回でも示していますが「こうすればうまくいく」といった成功の方程式はわかりません。そもそもプロジェクトの一つずつはオーダーメイド型ですし、同じプロジェクトは絶対に存在し得ません。
少なくともそもそもの失敗、全国の自治体が各地で何度も同じような形でコケてきた教訓をベースに、いくつかの論点で自発的に「アラートが働く」思考回路・行動原理を考えていきたいと思います。