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#37 超個人的ショートショート(3)

博士は一体何の研究をしているのか。
長年助手を勤めるこの僕でさえ解っていない。
2年前に博士がいきなり「これはイケるぞ」と言い出したと同時に、その日から研究に没頭する毎日がスタートした。
僕が出勤する時間には既に博士は実験を始めているし、退勤する時間もまだ博士は実験を進めている。
もしかしたらずっと帰宅していないのかもしれない。
そして研究の内容に関しては一切教えてはくれない。
全て博士が一人で進めている。
その入れ込み具合は尋常ではなく、半年前に科学者にとって最も権威のある賞を頂いたというのに、「授賞式に行く時間がない」という理由で辞退した程だ。
凡人の僕にその思考回路が理解できるはずもない。

僕には毎朝のルーティーンがある。
研究室に入ってすることは机の上にあるメモ書きの確認すること。
無造作に破られたノートの切れ端に、その日使用予定の実験器具や試薬などが、博士特有のせっかちな文字で記されている。
僕はそれが何の目的なのか見当も付かない。
とにかく指示されたものを用意するだけだ。
それを博士専用の研究室に持って行くのだが、僕の存在に気が付いていないのだろう、声をかけてもらうことはない。
以前はもっと気さくな感じだったのに。
博士をそこまで変えてしまう研究テーマとは一体なんなのだろう。

博士が研究している間、僕は待機していなければならない。
最初は僕もその研究に携わりたいと何度もお願いしたのだが、博士は決して首を縦に振らない。
あそこまで拒否されるといくら僕でもさすがに萎える。
今ではもうそんなことを願いもしなくなった。
13時と19時ぴったりに食事を届けるのと、2時間おきにコーヒーの準備をするのが唯一の仕事だ。

とは言え、僕も研究者のはしくれだ。
このまま貴重な時間を浪費するのももったいない。
そこで最近はコーヒーの淹れ方に凝っている。
豆の種類や味、挽き方、お湯の注ぎ方などのデータをにまとめているのだ。
なるほど、品種によって最適な温度や時間があるのか。
待てよ、その日の気温や湿度にも大きく影響を受けていそうだ。
旨いコーヒーを淹れるとは随分と奥が深いんだなあ。

僕の研究者としての本能が沸々と湧き上がってくる。
そう、この感覚。
まだ誰も知らない世界の秘密をそっと解きほぐしていく作業。
これこそ研究者としての醍醐味なんだ。
僕はますますのめり込む。
毎日の鍛錬の成果か、随分データも集まった。
そろそろ論文の一本でも書けそうだ。
「World Journal of Chemistry」は受け取ってくれるだろうか。
「Newton」辺りは面白がってくれるかもしれない。
とにかく、目指すは世界中のバリスタたちを唸らせるような究極の一杯。
もう少しだ。
もう少しで手が届く。
暗闇の彼方にあるかすかな光を目指し、僕は必死に手を伸ばす。

そんなある日、向こうから大声が聞こえた。

「大成功だ!大発見だ!ちょっと来なさい。素晴しいぞ!」
「……」

博士が何か興奮気味に叫んでいる。
どうやら何かを発見したらしい。

「ん?どうしたんだ?早く来なさい!」
「………………」
「おい!」

ほっといてくれ。
今はそれどころではない。
間もなく長年のデータを活かした究極のオリジナルブレンドが完成する。
博士の道楽などに付き合っている暇なんてあるわけないじゃないか。

僕は精神を研ぎ澄まし、そっと湯を注いだ。

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