見出し画像

夜明けのゴンドラ

幽かな波音に呼び覚まされた
昨夜から降り続いた雨音はなく、
月の女神によって
夜気のヴェールがかけられた世界は
静寂のエーテルで満ちていた

満月の明かりが室内を朧げに照らし、
天井には光の波紋が仄かに揺らめく

レースのカーテンを開けると、
潮騒と海の香りが、恍惚を伴って
わたしを抱擁した
髪の、耳の、あらゆる隙間に
潮の甘い風が指をすべらせる

わたしは出窓に腰掛け、
ネグリジェの裾を垂らさぬよう
畏る畏るつま先を濡らす
赤い魚が、塗りたての紅い爪に惹かれ
せわしく指の間を往き来した

見渡せば、
街は灯台のような煙突を残し
すべてが海に沈んでいた
二階に寝室のある我が家は
なるほど幸運だった

ほんとうの孤独は
味わったことがないけれど
おそらくこの沈んだ街のように
静かで果てしないのだろう

睡りと夢の世界で、
寝息のような櫓声が近づいてくる
櫂のきしむ音と、少しの飛沫——

それは、ゴンドラであった

漕ぎ手の少年が握る櫂は
振り子のように時を刻み
舟といっしょに世界の夜を
刻一刻とすすめている

「こんばんは、粋なお嬢さん」

仕立てのよいシャツに
深紅のスカーフ
胸元には白蝶貝の釦が
波に映え、星のように瞬いた

「少し時間をもらえるかい」

少年は目を飴色に煌めかせ
迷いない所作で手を差しだす
わたしはその手をとり
窓枠を蹴って跳んだ
黒艶のある毛皮の客席が
からだを抱きとめるように埋めた

往き先は知らない
ただ孤独に甘んじて浸かるより
舟の揺蕩いに身をゆだね
夜を明かすのもわるくないと思えた

鼓動がまだ早鐘を打つうち
角砂糖をミルクに落とす音をたて
ゴンドラは動きだす

「あなた、ゴンドラ漕ぎなの?」
「詩人だよ」
「なのに舟が漕げるのね」
「詩人はなんでもできる」

すると少年は白蓮のような手をのばし
夜空から星屑をひと掴みすると
宵を注いだグラスにそっと浮かべた

群青色の酒はたちまち泡をふくみ
グラスの中に小さな流星を降らせた

一口飲むと、菫の香りが
憂いをともなって喉を流れおち、
流星が閃きのように体内で弾けた
芳醇な酒だった

「あなた、まだ子どもでしょう」
「詩人はなんでも飲める」

少年は澄ました顔でグラスを煽った
気づけば満月は沈み
天球を支配する銀河が
悠然とわたしたちを見下ろしている

何処か彼方から海を渡り
悲しげな歌声が届く
人魚のものだと少年は言った

その調べは
古代の弦楽のように
星座の動きと調和し
壮大なる叙事詩を唄う

星々の輝きに彩られ
わたしたちの魂は
意志をもった糸のように
繋がり絡まって
知的世界の甘美なよろこびを
ともに味わった

ゴンドラを漕ぎながら
少年は語った

「一度混ざり合った色は
決して元に戻ることなく
心の一部を染めて残り続ける

今夜、厄介なことに
ぼくときみは精神を共有し
新たな色を創り出してしまった

愛?恋?
所詮どちらも美の共有だ

きみも感じただろう
微かな色彩の揺らぎ、
ぼくときみの心が
完全なる同じ位相に
染まった瞬間を

同じ夜明けが二度とないように
この色は唯一無二なのだ」

陽が海の肌に金色の腕をすべらせ、
朝の誕生を告げた

「ごらん、朝だよ」

憂愁をたたえた少年の横顔が、
朝陽に照らされ陰を深めた

少年は舟を漕ぐ手を止め
東の黎明を、睫毛ごしに
じっと見つめている

往く手には見慣れた屋根
開け放された出窓からは
レースのカーテンがそよぐ

「今夜ぼくときみの邂逅から
きみのなかに生まれた色
ぼくのなかに生まれた色
きみはそれを朝に携えて
気高く生きなくちゃいけない

きみの描く絵画がどんなに
素晴らしいものになろうと
その隅に描かれた花の色を
どうか憶えていてほしい」

「貴方のなかにある色は——」
「さあ、お往き」

少年は、わたしの背中をおした

「これが詩人の役目さ」

ふり返ると、朝であった

水は遠く彼方まで引き
息を吹き返してざわめく街は
靄と朝焼けにつつまれている

少年の影は何処にもなく
ただ海風だけが
慈しむように頬を撫ぜていった



#詩 #散文詩 #自由詩 #文学 #小説

いいなと思ったら応援しよう!