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虚無のおかげで意味がある


虚無を行為で気を紛らわしているにすぎない

自分に矢印を向けて何がしたいかを考え始めて、いつも思っているようなことしか出ないと気分が落ち込んでいく。
虚無な気分になっていく。

でも、適度にyoutubeを見て、テキトーに生きていると、雨だろうがなんだろうが、外に出ることが気持ちがいいから外に出て歩くし、飯の買い物もできる。
家で溶けてしまうなんてことは起こらない。

でもテキトーに生きているわけだから、そこの意味感とか、何に向けて動くかとか、努力とかそういうものは頭には浮かばない。

例えば、これをしなきゃと無理やり思ってみるというのも一つの案であるが、それもそれでしんどい。
ただ、普段の生活では、なんとなくこれしないとな〜と思って生活をしていて、それが極めてしんどいということには至っていない。
バイトをしていても、明日バイトか〜と思うけど、別にそんなしんどくない。

「〜しなければいけない」とか締切というものが効果を持つというのはずっと前から言われている。
でも、それがなんでなのかとか、それって結局意味あるの?とか、とにかくなんかそこにある空虚さが嫌いだった。

でも、実際ラーメン屋の前にスマホを持たずに並んでみたら、自分の中身こそが空虚であると思い立ってしまった。

これらをまとめて見てみると、だいぶ前に先輩や、友達のお母さんや、その他いろんな人が言っていた、「やることがあると病まない」ってことに帰着しそうになる。
これ、そりゃそうというか、そんなことはわかっているというか。
なんで病まないのかとかも、きっと脳とか心理学とかいろんな影響があるんだろう。

問題は、そこにやっぱり空虚さがあるということだ。
立ち止まった時に、自分一人ではなんもこの世界楽しくない。
ふと何もやることがない時に、感じるどうしようもない虚無がある。

パスカル「人間ってマジで虚無」

だいぶ前にパスカルが

人間のそれらの不幸はいずれも<たった一つのことから由来すること、そのひ一つのことというのは>部屋のうちに休んでいることができないということであることを発見した。

パンセ 一三九 慰戯

と言っていて、僕はそんなことないだろと思った。
当時僕は家に引きこもって、部屋の中で天井を見ながら人間の生きる意味ってなんだろうな〜みたいなことを結局のところ1年近く過ごしていた。
本も読んだし、調べ物もいっぱいしたけど、後半はずっと考えていた。
考えるだけの時間もいっぱいあった。
もちろんご飯も食べたし、病院にも行ったし、風呂にも入ったけど、考え事をしている分にはそんなに辛くないじゃないかと思っていたのだ。

だから当初は、このパンセの一文は、ベッドの上でなんの自由もなく縛られているような状態を考えているのかなと思っていた。
ラーメン屋の前で虚しくなったり、デジタルデトックスで虚しくなるまでは。

名著というのは、よくできていて、思い悩んだときに急にふと思い出すものであると同時に、人間というのは、すごく不出来で、名著が言っていることのほんの少しも一回読んだだけでは理解できない。

よく読んでみるとこんな節がある。

(たった一つの考えだけでわれわれは一ぱいになる。われわれは、二つのことを同時に考えることはできない。われわれが神に従ってでなく世俗に従って考えるのはもっともだ)

パンセ 一四五 たった一つの考えだけで……

パンセって、ほんとに思いついたこと書いたんだろうなと思う。
これ、よく思うし、これを僕もメモに書いたりする。
でも、パスカルはさっきの慰戯についてめちゃくちゃ何章も書いた後に、ふと思い出したかのようにこの章をこの文章だけ書いている。

なんかすごくよくわかるなと思った。
一三九では、結局、人間って虚しいって言ってる。

かくて人間は実に不幸である。一向に退屈の原因はなくとも<彼の性質の固有のあり方のゆえに>退屈しないわけにはゆかない、それほどに不幸である。また人間は実にむなしい。退屈をするさまざまに多くの原因に満たされていても、たとえば<玉をつくとか>ボールを<打つ>とか、そんな世にも小さなことがらでもう十分に気はまぎれてしまう、それほどにむなしい。

パンセ 一三九 慰戯

後半はわかりやすくて、しょうもないことで人間って満たされちゃうってことだと思う。
大谷だって、藤井聡太だって、やってることは遊びの範疇だ。
めっちゃ大谷好きだし、藤井聡太好きだし、最高に熱狂するけど、そんなことで最高に熱狂できてしまうのである。

前半はちょっとむずい。
「彼の性質の固有のあり方」ってのがなんなのか。

彼らは一つのひそやかなる本能を持っている、この本能は彼らが常に不幸のうちにあるという彼らの意識から由来し、彼らを誘って慰戯や自己の外なる仕事を求めしめる。彼らはもう一つのひそやかなる本能を持っている、この本能はわれわれの最初の<本性の>持っていた偉大さの名残であり、彼らをして幸福は<実に>休息のうちにのみあって動揺のうちにはないことを知らしめる。

パンセ 一三九 慰戯

2つ挙げてるけど、多分これが効いてるのって、ずっと不幸だって思ってるってことだと思う。
なんで不幸だと思ってるのか。

このわれわれの存在の仕方は、弱いものでありまた滅びゆくべきものであり、また立ち入って考えをめぐらすならそのとき何ものもわれわれを慰めうるものはないほどにみじめなものであることを知った。

パンセ 一三九 慰戯

深く考えた後に、こうやって思ったらしい。
考える葦って有名な言葉があると思うけど、多分こういうところから来てるんだろうな。
めちゃくちゃ弱いよねって人間って。

後者の本性である動揺のうちには幸福がないものを知らしめることと、考える葦のところがなんか関係してそうなので読んでみた。

人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう、なぜならば人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。

パンセ 三四七 人間は、自然のうちで最も弱い一本の…..

これ、やっぱ凄すぎない?って思った。
この人「宇宙は何も知らない」って言ってるのヤバい。
キリスト教が一神教なのも関係しているのかな。
僕は日本人だからかわからないけど、「宇宙はなんか知ってる可能性あるかもな」って思っちゃう。
でも、「宇宙は何も知らない。僕たちは考えられるから、それが人間の尊厳だ」って言ってるってことっぽい。

話は戻って、さっき、あげた2つの本性って言うのは、一つは「まじで不幸」ってことで、もう一つはこの「考えられるって言う尊厳」っぽいなって思った。

パスカル「みんな成功を目指すけど、暇つぶしで草」

後者は一旦置いておいて、マジで不幸ってなんで思ったのか。
なんで、人間ってめっちゃ雑魚いって思ったのか。
この後もずっと、ゆっくり幸せに暮らせるって言うのはこのマジの本性、マジで不幸せだってことを直視したり、知ったりしてないからだ。みたいなこと言ってるし、王様も一人で自分のありようを知ったら、もうどんな家臣よりも不幸せになるって言ってる。
だからみんな動揺を追求するんだって言ってる。
要は戦争とか、賭け事とか、慰戯をするんだって。

動揺を追求するのは彼らの誤りではない。彼らはあたかも彼らの追求するところの事物を所有すれば、それでまちがいなく真に幸福になれるかのようにして動揺を追求する。それがいけないのであり、彼らのなす追求をむなしいものと非難するのも、そういう点に立ってこそ理にかなうのである。

パンセ 一三九 慰戯

これまじで、ちょっと前の箕輪さんに読ましてあげたい。
僕らは、箕輪さんだけのせいではないけど、何か成功を真の幸せだと思ってしまうところがあるが、やっぱりそれはどうしても慰戯であって、暇つぶしなんだとパスカル大先生は仰っている。

でもこれは僕の直感にも当てはまっていて、人間って、めちゃくちゃ空虚だ。
ラーメン屋の前で、スマホを触らないだけで空虚なんだから。

俺「現代は退屈大事、でも退屈な人生は辛い」

退屈について僕も書いたものもあって、ここでは退屈についてポジティブに言っているんだけど、多分それは退屈しながらも慰戯ができるからだ。
気を紛らわせられるからだ。
本質的な空虚さ、どうにも埋められない意味というものを意識しないでいた場合だ。

だから無意味に蝕まれそうになったら、無意味を殺せ!みたいなことも書いた。
当時は感性を使うということが大事だと思った。
思うがままに絵を描いてみるよ時に乱暴に筆を使ってみるように、人生という絵画を描くということ。
無意味を感じたら、パスカルの言う不幸さを感じたら、それを殺す、つまりは考えないようにすると言うことをしろと言ってみた。

他にもう少し進んで、退屈の殺し方についても考えて見たことがあるっぽい。
ここではもう、パスカルみたいに、退屈さとか空虚さとか無意味さって言うのを世界の標準装備だって言ってる。
そうして、いわば方法論的に、どうやって殺すか、いわば無意味さとか空虚さに囚われないで生きるかと言うことを考えている。
まぁ、認知行動療法とかそんな感じで、ポジティブになるには瞑想しようねとか、そういった方法論にとどまったのが下の記事だと思う。

虚無だから問題解決をするも、解決すれば虚無

パスカルは多分、俺が思ったみたいに、俺ってマジで空虚やんって言うこの気持ちに耐えられなかったんだと思う。
さらに言えば、俺もめちゃくちゃ考えて、色々調べて、どこか科学的に虚しくない部分はないかなとか色々調べたけどやっぱりどこにも人間の価値っていうのがなくて、意味っていうのがなくて、無意味っていうのを受け入れてたし、パスカルも、ニーチェも、結構実存主義あたりってそんな感じだよなぁと思ってる。

で現代は、意味っていうのをそこからちょっと考え直して、気分とか感情を幸せと捉えている気がする。
ガチの意味ってないから、みんなでハッピーに暮らそうぜと言ってる。
政治家とか、NPO団体とか、会社とかがなくならないのは、このハッピーな暮らしがまだ実現してないからだって。

でもやっぱりそうなると中学生の僕が思ったように、じゃあ、完全に問題が解決して平和で楽で便利な世の中になったら、働く必要がなくなったらハッピーになるのか?っていう疑問が浮かぶ。
パスカル的にはノーだと思うし、結局僕もいい感じに体を動かしたり、いい感じに心を楽しませる必要があると思う。

そこが問題なのだ。

意味を考えるより、行動をしたほうが気分がいいという虚無

僕はどこかで、人間とか世界というものが無意味でないのではないかと今でもずっと思ってしまっている。
でも楽しく活動できたりする時には意味なんかは関係なくて、なんだかんだで体も心も調子がいいのはそんな虚無に囚われていない時なのである。
人生の意味というものに対して真剣に考えることこそ人生や人間に対して最も誠実な態度であるような気がしてしまうのだけど、それでも気分には勝てない。
気分に負けずに色々と考えてみても、決断をする時には、ネットを調べないといけないわけで、自分の中から出るものは少ない。
英語やろうかな〜、ビジネスやろうかな〜なんて考えていても、結局「それが本当に意味のあることなのか・・・・」などと考え始めたらゲームオーバーだ。
パッと英語をやって、海外の人と話して、そのスキルで世界平和を実現しちゃったりなんかしたほうが、よっぽど意味はありそうだし、気分も良さそうなのだ。

でも、真剣に人生を考えてみると、やっぱり気分は最悪で、意味があるかもずっと疑って、自信もなくなって、虚無になって、結局ふわふわした状態で、行為をすることになってしまうのだ。

認知行動療法で一番効果があるのは、行動活性化という方法だそうだ。
つまり、とりあえず行動してみるってこと。
とりあえず散歩してみて、とりあえず早起きしてコーヒー飲んでみて、とりあえずゆっくりパンセを読んでみて。
そんなことをしていると気分が回復してくる。

やっていることは、まさに慰戯だし、もう科学的にはそれが効果があるとエビデンスでわかってしまっている。
どんなに意味を大切にしようとしたって、僕らのDNAやら細胞やらがもう無意味でもいいから行動をしたほうが、僕たちの気分を良くしてくれるのである。

ますます、虚無な人間の存在を感じるではないか。

仕事とかは本質的な価値ではない

僕たちがどんな時に意味を感じるかというと、例えば、これは意味があると思い込んで、行為ができている時だ。
その時、人間の本質的な価値なんかには全く触れていないし、どちらかというと実務的な価値を重視している。
例えば、これをやると売り上げが上がるとか、これをやると職場の働きやすさにつながって感謝されるとか、これをやったら多くの教育格差をなくせるとか、この法案を通したら生きやすい世の中になるとか。
そんなことを思いながら活動しているし、それは実務的な価値であって、人間の本質的な価値ではなく、感情に効果を及ぼすものである。
人を助けられる系の意義は、他人と自分に効果があるし、数字を上げるとか、金持ちになるとか、誰かに勝つとかは、結局プライドとか気持ち良さだから自分への感情に効果がある。

もうこうなってくると、ホモルーデンスではないけども、結局人間というのは、遊びとかエンタメというものと切っても切れないんじゃないかと思ったりする。
なんなら積極的にその意味を認めていってあげるのがいいんじゃないかとすら思う。
人間はこの空虚さの中から、何やらいろんな感情や気分的な作用によって、空虚を埋めて文明を発展させてきたとも言えるんじゃないかなぁと思ってしまう。
(どこからで誰かが言ってそう。)

本質的な価値を埋める

いろんな哲学者がこの虚無の正しい埋め方みたいなものを議論しているような気がする。
社会参加が大事だ!とか、創造的に生きるんだ!とか。
なんか方法というのは結局のところ、本質的な意味を埋めることにならないんじゃないかと思う。

前提として、虚無は存在する。
人間は無意味である。
でも、人間は無意味の中で、自分が無意味であることに気が付きながら、悩みもがき苦しんでいる。
でも、その中で多くの人はこれに無自覚で、気分や欲望、感情に従って、生活をすることで乗り越えている。
むしろ、俗世間の無意味な悩みに悩まされ、命を落としたり、人を殺したりしている。
そんな圧倒的な愚かさも持っている。

無意味の埋め方はいくつかあると思うけど、1つは行動活性化の方法だと思う。
まず行動して、だんだん気分が良くなっていく。
気分を良くするように、自分が幸せであれるように行動するというものだ。
そもそも、こうやって行動することすら難しいけど、でもこういう方法はあるなと思う。

じゃあ僕は、無意味を一旦脇において、行動活性化で気がついたらいろんな行為ができていたというのでいいのだろうか。
気がつくと、例えばこの仕事は意味があるなと思って行動して、何かある程度役に立って、なんとなく笑顔で死んでいくということでいいのだろうか。

僕はそれに引っかかってしまう人間だ。
これでいいんだっけって立ち止まってしまう人間だ。

じゃあ他に方法はあるだろうか。
もうお忘れになっているかもしれないが、「〜しなければならない」と思うのはどうだろう。
ここに意味というのはないのだけど、行動活性化のぬるっとしたいい感じの幸福よりもちょっとなんか、湿っぽい感じを感じる。

僕や日本人というのは、西洋人よりも多分感情に対する信頼がない。
だから、自分は今嬉しいけど、本当に嬉しいのかなとか、楽しいけどほんとに楽しいのかなとか思っちゃう。
だからなんか意義が欲しいし、もしかすると、お上に使えるというところで、お上が意味がなくてもお上に使えたという生き様に価値を見出したりしてきたのかもしれない。
この生き様的な考え方は、いろんな美徳の話で語られる議論だとは思うけど、方法に美徳を置くことで内容がなんでも成功するという方法なんだろうなって思った。
そういう方法もあるかもしれない。

僕は無意味から逃げたくない

どうだろう。
やっぱりどうしても、僕は無意味から逃げたくない。
無意味を殺すとかに腹落ちしたのも、この無意味をなんとか超克したいと思ったからだと思う。
無意味を殺すための行動というのがやっぱり一番腹落ちするし、無意味を殺すための人生というのが一番いい気がする。

そこにはやっぱり気分も大事だし、自分の得意なことも大事だし、自然にできることも大事だし、自分が大事にしたい生き様も大事だと思う。

何が大事かはわかっていて、パーツは揃っているけど、どうこれを組み合わせたら、無意味を殺したことになるのかわからないって感じな気がする。
しかも、原理的な無意味は無くならないという制限もついている。

無意味と気分の間にあるもの

無意味なのは正しいと思う。
科学ってどんどんこれを暴いていってる気がする。
哲学系のものもこれ系のやつ結構多いなと思ってて、例えば最も有名なのはブッダの考え方だと思うし、めちゃくちゃ助けられたりもする。
だから、これは正しいとしたい。

でも、同時に、感情とか、気分とか、大事な人との大事な時間とか、美しい景色とか、バカみたいな楽しい時間とか、新しい場所への冒険とか、心震える勝負とか、誰かのために身を投げ打ったあの瞬間とか。
そういうものがあると思う。
そういうのって、この無意味が真実である世界でも感じてしまうものなのだ。

でも、感情が大事っていうのはなんか違う。

気分はもちろん大事だけど、何をして、どう生きて、何を考えて、その気分を得ているのかがもっと大事だと思う。
行動活性化って無味無臭で、確かに幸福になるんだけど全然美味しくない薬みたいだ。
そこの間に何かが言える気がするんだ。

あくまでその間に何かがある気がする。
じゃあ感情に価値があるか、意味があるかって言ったらそこにある感情とか気分自体には価値があるように思わない。

それよりもどっちかっていうと、変!とかおもろい!とかの方が意味がある気がする。
でももちろん、気分は必須で、どっちが大事とかってことじゃない。
意味的な雰囲気は、おもろい!とか、変な生き方だけど良すぎる!とか、これ変でいい!とか、うわ〜いいものを見た!とか、そっちの方が意味っぽい。

好き、とかはどっちかっていうと、安定、というか、地盤という感じ。
安心を司るものな気がする。

やっぱり僕の中では、「おもろいやんおもろいやん。」が一番意味に近い。
人生の選択をするときも、こっちの方が無理すぎておもろいやん。で東大を受けてるし、わざわざ大学院も学部を変えたのも、元のやつが嫌だったのもあるけど、変えると言う行為が、面白いと思ったのもあると思う。
これってなんだろう。

意味の例:親友との旅行

意味があるなって思うのは、例えば親友と行く旅行だ。
例えば、ニンテンドーミュージアムに行くとする。
ニンテンドーミュージアムにもニンテンドーミュージアムに行くことにも意味はないと思う。
でも、ニンテンドーミュージアムに親友と行くのは最高の体験になるはずで、しかもできてばっかりのプレミアムな体験になる。
そこまでの電車とか、そこまでに交わす会話とか、意外とニンテンドー本社のあるあたりは煙い感じなのとか、いろんなことをひっくるめて最高な体験になるだろう。

だから、ものとかことには意味がないし、おそらく親友という個体自体にも大きな意味はない。
でも僕視点の親友との関係には最高の何かがありそうだし、僕視点で「一緒にニンテンドーミュージアム行くぜ!最高!」と思うことは文字通り何かが最高だ。

最高さとか、意味とかが、ゆらゆらと湯煙のように宙を漂っている。
でもその両端は必ず僕ともう一方を別の何か、例えば親友だったり、例えばニンテンドーミュージアムだったりを硬く結んでいる。

意味の例:他人の最高さ

あと僕は他人に対して、最高だなって思うことがかなりある。
人の体験とか、人が変なことをいうと、最高だなって思う。
特に、初対面なのに悪気なく変で愛らしいことを言ってくる人、ずっと友達だけど陰謀論にハマってるやつ、ずっと友達だけど人の結婚式で過去1の笑顔しちゃうやつ、ずっと友達だけどスタバでうんこの話をしてくるやつ、研究室の先輩だけどめっちゃ気を遣ってくれる人、研究室の同期だけど世間に辛辣なこと言い始めるやつ、そんな人に最高すぎると言って回っている。
何が最高なのかわからないけど、最高すぎるなと思っているし、これはかなり意味っぽい。
感情でも気分でもない。

そこに僕はある種の人間らしさとか特別性を感じている気がする。
だって、初対面でそんな変なこと言うなよって思うし、陰謀論なんかハマんなよって思うし、人の結婚式でなんでお前が一番幸せそうなんだよって思うし、スタバでうんこの話すんなよって思うし、研究室の先輩なのに気を使いすぎだろって思うし、世間は確かに酷いけどそんな酷いこと言うなよ辛辣すぎるだろって思う。
なんかこう理屈じゃないし、ツッコミどころがあるし、変だし、でもそこが愛らしいし、その人らしさだし、面白いし、嬉しいし、楽しい。

意味の例:親友との関係

親友が最高なのは、今までのストーリーとかそこまでに僕が感じてきた上述の人間的な最高さとかを踏まえて、今、僕とお前がいることが最高だし、これからの未来が最高だなと言うことである。
旅行に関してもあんまり場所が最高というよりかは、そこで一緒にいて、何かが起きるはずで、それが最高である。
何が起きるかはわからないけど、少なくとも例えばまたうんこの話をニンテンドーミュージアムでする奴がいるかもしれないし、アイスを買ったのを落として不機嫌になるかもしれないし、美味い飯を食って食レポしてみたらめちゃくちゃ下手からもしれないし、グッズを死ぬほど買ってそれをどっかに忘れてしまってめっちゃ空気悪くなるかもしれない。
それが最高なのだ。

失敗ばっかりが例に出たけど、別に例えばそれまであんまり何も言わなかった人がめちゃくちゃふがふが言いながら自分の仕事に対して熱弁を振るっていたりとか、努力して思いっきり悩んでいたりとか、成功してみたことないくらい喜んでいたりとか、次の夢に対してめっちゃ語ってたりとか。
そういうのをみて最高だなって思いながらも、ちょっと遠くにいっちゃったなって思ったりするのとか、それで俺も頑張るぞって言って、今度はあれやこれやの資格のために勉強したりとか、転職したりとか、英語喋れるようになったりとか、歌上手くなったりとか。
そういうのも最高じゃないかと思う。

僕は意味はこういうのでいいと思うし、ガチの意味は確かにないんだけど、そのガチの意味がない中で、なんか悩んでいる人間の滑稽さとか、なんか頑張っちゃう人間のおかしさとか、なんかキレてる人間の愚かさとか、なんか思ったより成し遂げちゃう凄さとか、嬉しさとかそういうのが意味な気がする。

無意味である、だから意味がある

感情も行為も何もかもに意味がないからこそ、そこで振る舞う人間は変だ。
理屈がない。
だけど理屈がないところに意味を感じる。
理屈なく生きているその選択が変だ。
その変さに意味を感じる。

頑張って何かを成し遂げようともがいている人を応援したり、そんな人に感動したりとかしてるそんな人間のバカさ加減が意味ではないかなと思う。

完全無欠の論理的な意味が横たわっていて、生物学的な現象たる感情や気分、それによって発生する健康やストレスというものがあって、物理学的な行為や化学的な味覚やらなんやらもあったりして、それら全てに全く意味はなくて、そのことを考えるとめっちゃ辛くなったりする気分の仕組みが脳に組み込まれていたりする。
そうやって意味がないのにも関わらず、友達と麻雀やってなんか楽しく過ごせたり、友達と飲んでなんか楽しく過ごせたり、なんか嫌だなぁと思いながら職場の飲み会に行っていってみたら二次会カラオケまで楽しんじゃったり、飲み会で上司と喧嘩したのにスナックではサウダージ一緒に歌ったり。
そんな変で意味がなくて、キモくてバカみたいで愚かで、憎めなくて、楽しくて、嬉しくて、苦しくて、辛くて、でもちょっと幸福なそんな日常に意味を感じるのである。
世界の完全な無意味さがフリになってる感じすらある。

無意味なのになんでピアノなんか置いてあんの。
無意味なのになんで紅生姜なんか買ってるの。
無意味なのになんでビールサーバーなんか買ってるの。
無意味なのになんでオレンジュースのラベルの記載のルール守ってるの。
無意味なのになんであの子のために頑張ろうって思うの。
無意味なのになんでみんなの生活を豊かにしたいって思うの。
無意味なのになんで平和にするために頑張ってるの。
無意味なのになんで楽しそうに笑ってるの。
無意味なのになんで僕は君を笑わせようとしてるの。
無意味なのになんで僕はこんなに頑張って意味に関する文章を書いてるの。

無意味なのになんでこんな頑張っちゃうんだろうか。
無意味なのになんで楽しもうとするのだろうか。
無意味なのになんでブランドを高い金で買うのだろうか。
無意味なのになんで就職活動頑張るんだろうか。
無意味なのになんで仲間意識なんか芽生えるんだろうか。
無意味なのになんでこんなに推しから勇気をもらえるんだろうか。

無意味なのに。無意味なのに。無意味なのに。

無意味なのに、なんでこんなに生きてて良かったと思うのだろうか。

そこにこそ僕の思う意味があると思う。

結論

無意味なのにこんなに豊かである。
無意味なのに僕らには不思議と何か意味があるような経験をする。
もちろん幻想と片付けたり、勘違いと片付けたり、生物学的な仕組みと片付けることもできるのだけど、無意味と片付けるにはあまりにリアルであまりに複雑な経験がそこにある。

特に意味を感じるようなものには、人のダメさ加減を感じるものがある。
かくもダメでありながら、なんとか生きながらえている。
かくも変でありながら、なんと笑顔を与えている。
ダメさ加減を眺めるとき、そこには感情も気分もモノも金もない。
ダメな生物の生命力がそこにはある。

自分の中の変で面白い人生の選択を見るとき、僕は意味を感じる。
そこには、例えば自分の中の無理を突き抜けたり、どうもよくわからない変なモノだなという気持ちがある。
そこにだって感情やら気分やらはない。
あるのはそこでそれができたら、なんかすごいなと思う生命体とそんなよくわからないことを達成する不思議な生命体の生命力である。

生命力とわかりずらいが、いわば、変で道理が通らなくて、意味もなくて、でもしょうもないと片付けるにはあまりに高エネルギーな現象がそこにはあるということだ。
その道理の通らない、理屈の外にあるこの人間という生き物の変な選択たちに、僕は一旦、意味というものを預けてみようと思う。






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