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感覚で作る田んぼ

去年、元田んぼだった耕作放棄地でお米を作った。その土地では8年振りの耕作である。地元の主導者の元、無肥料無農薬で取れたお米は驚異の11俵!660kg/約300坪(一反弱)である。肥料を与え除草剤を撒き、天候に恵まれた田んぼで10俵取れれば大豊作と云われている。一俵は60kg。各地で不作が騒がれた去年の酷暑の中、無肥料無農薬の田んぼで採れたお米は順調に粒が大きくなり、稲穂は重そうに首を垂れた。地元特有の「茶水」とよばれる澄んだ黄金色の山水。それ引き入れ数年間草でボーボーだった田んぼは大豊作となった。

主導者の彼は、高齢化のため耕作放棄地になってしまった地元の土地を使い地主の代わりに田んぼや畑作りをすることを10年以上続けていた。高齢化や後継ぎ問題により地主が放置していた農地の草を刈り、頼まれれば田畑を耕運機で耕した。撮り鉄も集まる私鉄沿線の環境整備も地域グループと連携し率先して行った。彼の心意気に触れ遠くからも支援者は集まった。里山の菜の花畑などはそうした地元の活動家による善意で成り立っていることが多い。反面、シャイで硬派な性格もあり彼の行動は親族をはじめ周りの地元農家にはあまり理解されなかったようである。それでも彼の地元を思う心に触れ、支援する仲間は遠くからも訪れた。そうした仲間に指導しながら自然農をやれる範囲で実践していた。お金ではない価値を基本とし、都会から訪れる労働支援者には足りない労働力を補ってもらう代わりに、培ってきた経験と知識、道具、農作業場や休憩場所を提供し、「じいさん、ばあさんの作る料理がいいんだ」と毎回飾らない手料理を振舞ってくれた。高齢になった彼のお母さんからは地域の昔話を聞き、古きから新しきを学んだ。彼の作る手料理は支援に来る人の毎回の楽しみになった。草刈りの仕方から農地の整備方法、自然との付き合い方や作物の作り方、農業機械の扱い方などを彼から学んだ。地域の役場や活動家も紹介してもらい地元民の信頼も少なからず得ることができた。それらが彼がいなくなった今年からの新たな農地改革の基礎となっている。

大の医者嫌いで「体調がすぐれない」と時々言っていたが検診にはガンとして行かなかった。「米の準備が出来なくなる」と診察を嫌がる本人をたしなめ「たまには受けてみたら」と遠くの病院で検診を受けてもらった。翌日、会いに行って本人から聞いた知らせは余命2ヶ月であった。「抗がん剤や放射線治療などの延命治療は受けない」と本人の強い意志があり「調子が良いうちに米を収穫してしまおう!」としばらくして彼と2人で米の収穫準備を始めた。去年の8月25日、天気の合間を見て予定より早く収穫を迎えた。「命があるうちは教えるよ」と笑いながら教えてくれた彼が亡くなったのが去年の10月。なるべく純粋で自然なものを摂り、体がスリムになり肌は若々しく、目が輝き、何だか若返ってずいぶんイケメンになった彼が亡くなる2日前、思い立ったように「そら豆の植え方を教えるよ」と少し早めの苗づくりを教えてくれた。

口数の少ない彼が突然亡くなり地主が誰なのか全く分からない。地元の仲間の一人に協力してもらい地権者を探し出す。耕作放棄地の地権者はだいたい地元にはいないものである。去年の暮れから今年3月まで掛かかり、やっと地権者の一人と連絡が取れた。地権者に彼から続く想いを告げると快く農地を貸してくれた。地主に代わり彼が耕作していた多くの農地の内、地権者の持つ3つの田んぼを今年から改めて仲間と耕作してみることになった。


鹿、猪、キョン、猿、ウサギ、獣はいるが電柵も回収されてしまった行き場のない農地


地主も分からないところから急遽決まった農作業。機械も資材も人手もない。彼の遺族の協力は得られず、無い無い続きで今まで集まっていた仲間は一旦解散。自分もこれまで都心から通っていたが、農地に近い実家へ住居を移し、まずは一人で何もないところから試行錯誤がはじまった。



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