身近なところから「信教の自由を守る」ということ
(2012年2月14日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)
毎年2/11を、キリスト教の諸教派が「信教の自由を守る日」と位置づけていることに関し、ネット上ですこぶる評判が悪かったのでひと言。
息子の通う保育園では、毎年子どもたちが保育園に寝泊まりして、(大人が扮する)異世界の住人に一人ずつ会いに行き、勇気の「印」をもらうという行事が伝統的に行われている。「住人」は年によって異なるが、河童や天狗など、子どもたちが絵本で見聞きするキャラが多い。一昨年は、おきつねひめ。
合宿に向けてモチベーションを上げるべく本人から子どもたち宛ての手紙も何度か届けられる。先生が手紙を読むたびに、子どもたちは想像をふくらませ、一喜一憂するのである。目に見えない架空の生き物を畏怖する心を育み、空想を働かせ、友だちと励まし合いながら難関を乗り越えるという通過儀礼としての教育的意義には期待するところ大。
当時、5歳になりたてだった長男も、おそるおそるおきつねひめと対峙し、
無事「成長の証」をゲットできた。この件は、かつて「オトナの階段の~ぼる~♪」で書いたとおりなのだが、実は後日談がある。
後から、合宿の様子を園で撮影してくれたビデオを見てギョッとした……。
保育園にお泊まりした翌朝、散歩がてらに立ち寄った近所のお稲荷様に、「昨日のお礼を言おう」と、クラスの子どもたちが一人ずつ参拝していたのである。
先生の意図はあくまで、「来てくれてありがとう」と感謝の気持ちを表そうね~…というものであり、決して強制ではないし、まして具体的に「手を合わせて…」などという指示もない。が、うちの子も含めてほぼ全員が手を合わせて口々にお祈りした。
これが何を意味するかお分かりいただけるだろうか。繰り返しになるが、私はお祭りを含めた伝統文化や季節の行事を尊重すること自体には何の異論もない。
しかし……年端もいかぬ子どもたちに、みんなでおきつね「様」を拝むことを推奨する、となると話は別である。同じクラスには、「七夕」の短冊には願い事を書かず、給食では豚肉を食べないイスラム圏の子もいた。
息子はもちろん洗礼を受けているわけでもキリスト教の信仰を自覚しているわけでもない。しかし、何を崇め何を拝むかは至極プライベートな問題であり、「みんなで~しましょう」という類のものではない。いや、あってはいけない……と私は思う。せめて、何らかの配慮がほしかった。その点、保育園へ丁寧に説明したところ、幸い理解していただけた。
これも繰り返しになるが、拝む自由もあっていい。「己の自由ばかり主張して…」という批判をよく耳にするが、他宗教を信じる自由(「国家を愛する自由」も含む)は、まったく同等に保障されなければならない。
反カトリック・反権力を貫いたフランスの哲学者ヴォルテールの名言(*諸説あり)として伝えられているとおり……。
自らの「信じる自由」を守るということは、他者の「信じる自由」が剥奪されることがないよう常に注意しておくことと同義のはずである。
たとえば、公立保育園の園長が個人的信条から「卒園式で職員全員に賛美歌を歌わせよう」と提案したら、私は反対するだろう。違和感を抱きながら「君が代」を歌うのと同じように、信じてもいないのに「主われを愛す」を歌うのは欺瞞だと思うから……。
そして、「罰則規定」を設けて強制されないと歌えないような歌など、とても賛美歌とは言えないとも思うから……。もし、サッカーの国際試合やオリンピックなどで「起立」と「斉唱」を義務付ける条例ができたら、みんな賛成するだろうか……。
声を大にして異議申し立てをしようとは思わない。ただ、こうしたごく些末な「自由」を許容しない流れは、いずれ国家的規模での規制に道を開きかねない。だからこそ……