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敷居なんか下げられたら困ると本気で思っている意識高い系の宗教者たちへ

 「教会の敷居を上げたがる人々」というのが一定数存在する。「信仰のない者が軽率に不純な動機で敷居をまたぐな」という思いが根底にはあるのだろう。かつて「『軽く』扱われたい願望」などと揶揄されたこともあるが、個人的には「間違って入る」ぐらい敷居は低い方がいいと思う。

 軽かろうが重かろうが、とにかく「認知されない」ことには何の影響力も発揮し得ない。特に信者以外の知的関心層や一般メディアに刺さるためには、ただただ「正しい(とされる)信仰」を「正攻法で伝えていればいずれ伝わるし、それ以外の方法で伝えるのは邪道」などと切り捨てていては無理だとそろそろ自覚すべきである。

 一方で、教会の敷居と一緒にキリスト教という宗教体系の内実や本質まで「下げ」てサブカル世代や「にわかファン」に取り入ろうというのは違うとも思っている。誤解されがちだが、敷居を低くすることと、軸まで骨抜きにして俗世に迎合することとは似て非なるものであることは、なかなか理解されにくい(他宗教へのリスペクトに基づいた宗教間対話と、崇敬の対象は違っても到達点は「みんな同じ」とするシンクレティズム:混合主義とが似て非なるものであるのと近い)。図解するならこんな感じ。

*「敷居が高い」は誤用とする説もあるが、ここでは慣用的に使用。

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①敷居が高い。段差が激しく入り口にたどり着くまでがしんどい。

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②敷居を下げようと建物まで低くする。入りやすいが平坦で凡庸。

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③敷居を低く(入りやすく)するために段差を緩和。バリアフリー。

 これまでの教会は「正門」以外から入ろうとする人たちを「信仰がない」「求めがない」「動機が不純」と排除してきた。でも、教会に入る入り口は一つとは限らず、裏門や勝手口もあるし、より段差の少ないスロープ(③)があっていい。

 おそらく「敷居なんか下げられたら困る」と危惧する人々は、②または③の状態をイメージしている。そもそも崇高な「聖域」であるから、そう軽々しく土足で踏み荒らされたら困るというのが率直なところだろう。もちろん、「ウチの入り口は正門だけです」と主張する「にわか」を歓迎しない教会もあり得る。

 だとしても、せめてその旨(「一見さんお断り」「会員制」「入り口はこちら」など)の説明はあってほしいし、それを同業者に押し付ける必要もない。仮に他の教会の敷居が軒並み下がったとしても、あえて「敷居の高い」教会として存続すれば、より差別化できてむしろ好都合なはずだ。困ることなど何もない。

 逆に、自意識としては「開かれたお店」のつもりで、看板では「誰でもお気軽にどうぞ」と掲げながら①のような状態を放置し、「なんで人が来ないのだろう」などとただ漫然と人が来るのを待ち続けているとすれば、店主の職務怠慢と見られても仕方ないだろう。

 漫画、アニメ、ゲームなどのサブカルチャーは、そうした教会の敷居を下げるスロープとして絶大な可能性を秘めている。自分の人生とは無縁だと思っていたキリスト教が、途端に身近で親しみやすいものに思えるような橋渡しができるからだ。

 その上でなお、ガルパン杉山Pが指摘しているように、信者(受洗者)獲得のみを「伝道」の最終目標とするなら、「サブカルには伝道の力なんてない」と心しておくべきだとも思う。「サブ」に過度な期待は禁物。

 「いのり☆フェスティバル」を含むこの間の試みは、しょせん「サブ」で「亜流」だという自覚ぐらいはある。別段「メイン」になる必要はない。正攻法で伝わるものは当然あるし、そういう求めをすでに持っている人には相応の手助けが必要。でも、そもそも求めなんかない人に手に取って、目にしてもらうための入り口は別に用意すべきなのだ。

 教会同様「敷居が高い」と言われる他の宗教施設や伝統芸能、「堅苦しい」イメージのある政治、マニアックな専門領域などで、「にわかファン」をどう受け入れ、全体の底上げをどう図るかは、業界の趨勢を左右する重要な課題のはず。「信仰継承」において同じ悩みに直面する他業種に学ぶべき点は少なくない。

 とりわけ伝統ある仏教界の中で、果敢なチャレンジを続ける先駆者たちと、それに対する反発、抵抗に対峙する姿勢には毎度考えさせられる。牧師をはじめとするキリスト教関係者にも、同等の覚悟と気概を持ってほしいと願わずにはいられない。


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