平和の歌を口ずさんで マカピーな日々#0844
マカピーです。
果たして日本にとっての「8月15日」は『敗戦記念日』なんですか?それともやっぱり『終戦記念日』なんですかね?
マカピーは、子供の頃その呼称について不思議に思っていたのでした。言葉一つにしても受ける印象はまるっきり違うからです。
どちらも戦争に負けたことには違いないのですが、敗戦を祝うのではなく終戦を祝うというのには、トラウマ(心理的外傷)を回避する意味があるのかも知れません。
戦争勃発では、当事国ですべての計画が変わるのです!
人々の暮らしも国づくりも、そして人々の命さえも。
おそらく現在のウクライナ戦争でも、ウクライナそして戦争を仕掛けたロシアも将来的にかなりボロボロになるでしょう。戦争は怖いです。
ベトナムのハノイに2年半滞在していた時に、『ベトナム戦争』を改めて考えました。
というかマカピーの子供の頃のニュース番組と言えば「インドシナ紛争」が真っ只中で、しかも子供には一体どうなってるのか分からない様相を呈していたのです。
現実はハリウッド映画の様な「勧善懲悪」ではなかったんです。
目まぐるしく変わる政治体制を追っている報道も、米国寄りの報道が主でした。
そして今思うのですが、本質的な事を知っている大人って、本当にいたのかしら?
当事正しい歴史観を持った情報通になる事は難しかったと思うのです。
今だから分かる当時の事の数々を学ぶ姿勢は大切です。
現代社会では歴史的な検証があり、太平洋戦争も見直されるのが今日の世界で「新事実」がでてきたり、「既成事実」が見直される機会が多くなりました。
その背景には昨今のインターネットの発達で多くの人が生のデータに触れる機会が増えたことがあげられると思います。
ただし、その情報さえも誰かの主観によるものであることは差し引いて考える必要があります。
そういった意味で黒澤明監督が描いた『羅生門』は人の解釈や判断がいかに危ういものである事を描き秀逸で、基本的には現代社会のとらえ方と似ているように思うのです。
マカピーが基本的に思うのは私たちは「情報操作を受けている」事を認識し、戦争回避しながら『宇宙船地球号の中で仲良く暮らす』より仕方ないという事です。
最近は火星移住を唱えるイーロン・マスク氏のような人もいますが、若干名が火星に行くようになっても、全面核戦争にでもなって死の星ならない限り地球を放棄することはないでしょう。
平和を維持するのは手間と金がかかります。
でも、戦争は一瞬ですべてを奪います。
ベトナムの事務所で働いていたマカピーの秘書の両親は、まさしくベトナム戦争を生き延びてきた世代でした。
父親は溶接工で直接戦闘に加わることはなかったそうですが、多くの場合戦役に出っぱなしの夫は、たまに休暇で帰って来るだけでまた戦場に戻ることの繰り返し、その都度子供が生まれ家族は増えるけど、その銃後を守るのは妻の役目で、全国的にひどく貧しい生活が長く続いたそうです。
ベトナム戦争が終結しても、今度は中越紛争があり、更にベトナムのカンボジア侵攻もありました。
ようやく平和時代になったときに多くの「退役軍人たち」は生業につくことが出来ず路頭に迷ったそうです。
それは彼らは「戦争しか知らない」人間になってしまっていたからでした。
ボクらは、過去から沢山の事を知る機会があるのにそれを活かしきれていないように思います。
こんな風に8月15日にマカピーも考えたのでした。
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。平和も戦争も言葉だけの問題じゃないのだ!