優勝おめでとう! マカピーの日々 #1415
マカピーです。
群馬出身のマカピーはニュース記事に目を見張りました。
春の選抜(甲子園)で群馬の初優勝!とあるではないですか!
やるじゃん群馬の球児たち、皆さん頑張ったね!
この学校はマカピーの母校ではありませんけど、そんなことはどうでも良いんです。
群馬の代表の活躍がマカピーがマレーシアにいてもとても嬉しいのですから!
良かった良かった!
するとマカピーの高校時代が蘇って来たのです。
マカピーは夏休みを終えると1年生ながらレギュラーだったバレーボール部から山岳同好会に転部したのでした。
それは練習が辛くてついて行けなかった訳ではなく、スポーツを楽しめなくなってしまった自分がいたからでした。
それから、野球部の面識のなかった同級生が夏休みの練習中に熱中症?で死亡してしまった事も心に重く響くものがあったのです。
あの日マカピーは彼が倒れる瞬間を練習の休み時間に体育館の前から眺めていて「倒れちゃったけど、大丈夫かな?」と心配してチームメイトが集まっている様子をみていたのです。
でも救急車がサイレンを鳴らして到着する頃にはまた練習に戻ってその事は忘れていました。
ところが、翌日彼が搬送された病院先でも蘇生することなく十六歳の人生を終えたことを知り、マカピーはしばらくボーッとしていました。
突然終わる人生をどうにも理解出来なかったのでした。
そんな事もあり、勝つことを目的とするよりも自己判断で動けるスポーツがいいと思ったのは、当時マカピーが新田次郎をはじめとする山岳小説を呼んでいた影響もあったのでしょう。
それでバレーボール部から中学時代の友人がいた山岳同好会に入部したんです。
そもそもこの山岳同好会は、学校側から要注意指定を受けていたらしいのは後で知る事になりました。
彼らは平日はマラソンだけでなく歩荷(ぼっか)訓練では重い荷物を背負って近くの山の中を行く「藪漕ぎ(やぶこぎ)」は良いとして、ロープワークの後で道路の急な法面(のりめん)などを使っての懸垂下降を繰り返していて学園祭などでは校舎の屋上からの懸垂下降では派手なパーフォーマンスをしていたから目立ったのです。
しかも近くの奇岩で有名な妙義山へは毎月のように出かけ、更には中ノ沢にあるロックガーデンでロッククライミングもやっていたし、雪の谷川岳登山などもやっていたのでした。
学校が指定する部と同好会との間には活動支援費の歴然たる差があったので、山岳装備を充実させたいマカピー達は「部に昇格」すべくロビー活動を展開したのでした。
靴、ザック、寝袋など個人装備は各自の負担としても、テント、ザイル、炊飯備品やホエブスと呼ばれる灯油バーナーなどはまだまだ高価な時代だったのです。
マカピーも一生懸命生徒会での票まとめを手伝いました!
つまりは山岳同好会は裏から生徒会を抱き込んで、正式に部の昇格が決まったのでした。
おお、これが政治ってものか?!
ところが、その喜びも束の間でした。
「アイツらに好き勝手にさせると危ない」と学校側に昇格を潰されたのはきっと私立学校ならではの規律が効いていたという事でしょう。
今思うと、あれで学校から部としての活動支援を受けていたらロッククライミングも雪山もガンガンやっていて遭難の危険が高まっていたでしょう(笑)
私立学校としては、遭難記事を連想し厳しくならざるを得ないところがありますね。
それでも、特別支援を受けてテントを新調することが出来たのはラッキーでした。
ところで無茶苦茶やっていた山岳同好会でしたが、「山行(さんこう)」では計画書を提出することが基本でした。
時刻表と山渓(山と渓谷社)の夏季臨時運行バス時刻表などとにらめっこで旅行計画を練り上げます。
衣食住をともなう活動ですから、一日の行動計画を作りどこでキャンプを張るのか、そこに水場はあるのかなど知っておく必要があるのです。
今のようにスマホで検索機能がある時代ではなかったのですべて手作業でした。
高校総体に参加すると、キャンプ地で他校との計画書交換するのですがマカピーも女子高の山岳部のテントを訪れて交換したのでした。
そこで、彼らの計画書の質の高さに驚愕したのを覚えています。
なんとルート沿いの地形、野生動物、植生、この時期の天気の特徴や平地との気温差まで調べ上げていたのです。
ちなみに高校総体での評価には、4人のチーム行動のとり方、気象通報を聞きながら天気図を作成する試験や、この計画書を提出することになっていたんです。
荷物の計量や食事内容などのチェックもあったのですが、「ボンカレー」だけで押し通しているツワモノ参加校もありました(笑)
ね、一般スポーツ競技とはずいぶん違いますよね。
ちなみに、マカピーチームは赤城山の最高峰黒檜岳(くろび)の下りでチームメイトが浮石に滑り滑落して、足首をねんざする事故に見舞われしまい、棄権することになったのでした。
山岳部に顧問の教員が二人いました。
普段はむさくるしい部室に来ることもありませんが、北アルプス縦走などで学校の方針で保護者として?顧問がついて行く必要があったのでした。
一人は数学の先生、もう一人は地理の先生でしたが、そこに異質の体育の先生が加わったのは、あの野球部員死亡事故の影響で「閑職」の山岳同好会顧問になった方でした。
ある日、その先生からテントの中で話を聞いたことがありました。
もちろんあの事故の事は誰も口にしませんでしたが、母校が初めて甲子園に出場した際の投手だったのです。
先生、いったい甲子園はどんな感じでしたか?と尋ねた友達に先生は答えました。
県予選での試合は今でもよく覚えているけど、甲子園の事は殆ど覚えていないんだ。
どうしてですか?
それまで、あんなに観客がいる球場を経験した事が無かったんだ。
歓声が雷のように城内に響き渡るんだ。
自分では気が付かなかったけど、平常心でいられなかったんだな。
気が付いてみたら試合が終わっていたんだ。
よく考えて見たら、先生もあの頃はボクらと同じ年齢だったんだよ。
甲子園の放送を見るといつも先生のエピソードを思い出すのでした。
高崎健康福祉大高崎野球部の皆さん、優勝おめでとうございます!
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。若いのにすごい度胸がありますね!