大きな木に敬意を払わない人種 マカピーの日々 #1250
マカピーです。
神宮外苑の歴史ある木々を守ろう!
それは、単に東京に限られたことではないからです。
スタジアムの取り壊しに伴う、再開発のように言ってますが耐震補強などは現存の建物を補強する事で殆ど同じ費用でできそうだというのに、デベロッパーとの不適切な関係が言われるのは変ですよね。
だって東京オリンピックだって、えいや!とやっちゃえば「ダダ洩れ」状態で資金投入できるのですから関係者にとって「美味しい事業」に映るわけで「やったもん勝ち」っておかしいよね!
都市再開発では日本全国どこへ行っても駅前の様子は変わり映えしなくなってしまったのは、どうしてでしょう?
道路拡幅工事で、神社仏閣の御神木が「公共事業」の御旗の前に簡単に伐採されてしまうのはどうしてでしょう?
どうして、心の故郷の山河を不必要にコンクリートで固める工事が進んでいるのでしょうか?
もちろん、人命を守る防災の意味があるのは承知しています。
ですけど、少子高齢化社会となって限界集落が全国にワンサカと出来てしまった中で、高度成長期と同じような公的資金の投入が今後も可能なのでしょうか?
50年以上経ったインフラを修繕して以前の状態に戻すって財源がないので無理ですよね!
マカピーは「少子高齢化」「限界集落」の出現というのは、昔ながらの原風景を取り戻そうという考えであれば、日本の山河に昔からの御神木や大きな木々が残る機会になるのかも知れないので逆にいい事なのかも知れません。
ところが、「日本の田園風景」は長い間に人が関わって作り上げたものですからその地域に人が住まなくなれば、ダダの山林になってしまうでしょう。
これからの日本は、何を後世に遺すのでしょうか?
限界集落が遂に廃村になれば、細々と維持されていた寺社仏閣の多くは朽ち果てるでしょう。
信仰に培われた地方の集落が消えるという事は、そこの歴史も、記憶も消えてなくなるって事なんですよね。
で、神宮外苑もその誕生はみんなで作った森だったのですが、後世の我々は短絡的に目先の利益に踊らされて「新しい」施設の誕生にフォーカスします。
でも、それに伴う大きな木の消失には少しの心の痛みと引き換えに「忘れる」事で罪悪感を消しているのでしょうか?
マカピーは南アフリカ共和国のダーバン市に住んでいた頃、通りにはみ出した並木が切られずにそのまま残されていた様子に「そうだよ、人間の方が遠慮すべきで、切り倒すのは失礼なんだよね」って思ったのでした。
古い歴史的な建物や大きな木の近くに行けば、ホッとする気持ちがするのはどういうことなのか、実際に触れてみて考えて見てはどうでしょう。
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。ツリーハウスに住んでみよう!
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