上野の杜(もり)を行けば(後編) マカピーの日々 #1108
マカピーです。
昨日からの上野の杜探訪の後編になります。
木造の奏楽堂から交差点を渡り、本来の目的地である「国際子ども図書館」を目指します!
左手に現れた小さな建物かな?と思い覗き込むと別の施設で、その奥に控えるドーンと聳え蒼然たる建物の手前に「国立図書館 国際子ども図書館」と表示がありました。
なんと、この建物は国立図書館の分室的な役割をしてるんですね。
それにしても古いというか、威厳に満ちたその様子から「こども」がイメージできないまま、前を行く主婦風な女性の後についてガラスでできたモダンなエントランスから館内に入るのでした。
まず最初は受付ですが、女性二人が会釈をしてくれ当然入館料は無しです。
入り口側は旧館になるのでまずそこから三階まで上る階段があります。
とってもいい感じですね!
トイレに行ったのですがそちらは新しい建物側でしたのでごく普通のトイレでしたが、廊下のコーナーに給水機がありました。
そうです、指でボタンを押すとピューッと水が出てそれを飲むやつですけどひさびさにこれを飲んで喉の渇きを癒して思いました。
そうだ、空港などで見かけますが最近は撤去されてしまってずいぶん少なくなったような印象なのです。
水もPETボトルの製品を買って飲むのが普通の光景になってしまったという事なんでしょうね。
図書館内の水は当然のことながら、東京都の水道水ですが十分美味しかったです。
館内にいられるのが1時間以内なので、新館側にある施設はパス。
旧館の面影を残す蔵書を見るのですが、なんだかよく分かりませんので適当に2階の突き当りの部屋へ入る事にしました。
これは事前にインターネットで調べた事のある閲覧室で「赤い鳥」などの昔の刊行物の複写版があります。(ここでの撮影は出来ません)
そして改修する際に、かつてあった4つのエンタシス風支柱を復元したそうです。
そうそうこの建物は、古いはずです。
「図書館をつくるべし」と明治政府が決めて設計図を作り工事を始めるのですが、途中で戦費等に予算が持って行かれてしまいプランは規模縮小、更に工期が遅れて昭和4年に竣工したらしいのです。
なかなかの難産でしたね。
それにしても、使節団として欧米を見てきた人々にとっては「知の基地」たる図書館設置は大きな夢だったし、一般市民もその開設を大いに期待したと思います。
当時は行列が出来たという事ですもの!
皆、知的興奮に飢えていたんだろうなあ!(笑)
現に子供文庫的なその閲覧室の奥付きの「宮沢賢治」コーナーの解説には「宮沢賢治もこの図書館を利用していた」とあるではないですか!
そうだ、盛岡から東北本線で上野の駅に着いたら真っ直ぐここへきて調べ物をして遅くまで建物内を行き来していた、姿が思い浮かべられるのでした。
実はマカピーが「宮沢賢治」作品で気になっていたのが彼の語彙でした。特に外国起源の単語をどこで探し当てたのか不思議だったのですが「ここでいろんな書籍を当たって得た知識だったのだろうなあ」と想像できたのです。
この建物が改修されることになりその新しいデザインを任されるのがあの「安藤忠雄」さんでした。
古くても良いデザインを遺し、機能美を追加することでかつての威厳を失うことなく「国際子ども図書館」が生まれ変わったのだそうです。
そういえば安藤さんは大阪でも「こども本の森 中之島」をデザイン寄付されていましたよね!
この後、マカピーは一般の閲覧室へ行き興味あった「海藻」の本を見つけたので閉館近くまでテーブルで見る事にしました。
司書さんが一人いるのですが、とっても静かな空間で気が付くと図鑑のページを開けたまま居眠りしてました! ヤレヤレ。
館内案内ではときどき「複写時間の受付終了時間」や「閉館10分前」のアナウンスがあるのですが、閲覧に最適な落ち着く環境がありました。
今回は短い利用時間だったので次はもっと探検してみようと思いながら館を後にしたのですが道路に面した敷地内に大きな銅像があります。
後ろから見るとエンジェルが舞っているので「はてさて、何の記念碑かしら?」と表に廻ってみると「小泉八雲」さんのレリーフがありました。
なるほど、日本に帰化して活躍した本名パトリック・ラフカディオ・ハーンである作家を顕彰するとは「国際子ども図書館」にふさわしい人物であるかも知れませんね。
マカピーはその後、芸大の前を抜けて不忍池(しのばすのいけ)を目指したのは前日そちらから沢山の外国人観光客の団体が来るのを目にしたからです。
その途中に都立上野高校があるのですが、地形的に道路を挟んで山手に校舎そして下手に運動施設がありました。
直ぐお隣が芸大だけど、この学校からも芸大に入学する生徒もいたのかしら?
などと考えながら道路を下ると蓮やヨシに覆われた不忍池の端にでてボート乗り場を抜けます。
マカピーの実家は天台宗なのですが、寛永寺の別施設でもある池の中にある弁天堂って不忍池を「琵琶湖」に見立てさらに竹島に当たる場所にこの弁天堂を作ったのだそうですよ!(ミニチュア・サイズですけどね)
天台宗と聞いて、マカピーが中学生の夏に比叡山延暦寺で数日間研修した事などを思い出しながら境内を行くと、周囲にいろいろな碑があるのです。
その一つが「包丁塚」でした。
ああ、これが子供の頃に愛読した『包丁人味平』にでてくる「不忍池の包丁塚」だったんだ!
ということで、「上野の杜はその池之端までいろいろな思いを湧き立たせるとても魅力的で不思議な場所でした。
その後は池のボートを見ながら山手線に沿ってマカピー妻の待つ秋葉原まで20分ほどで到着するのでした。
今更ながらですが、上野周辺を少し回っただけでも東京ってこうした歴史的にも面白いところが沢山あるんだなって思うんですよ!
それでも群馬で育ったマカピーの青春時代が学校のある世田谷方面で過ごすことが多く、人ごみのある都心に来なかったこともあるのでしょうね。
逆に川崎市で生まれて育ったマカピー妻にとっては銀座、上野、浅草あたりは目をつむっても歩けるという「都会っ子」だったのですから、二人は妙な組み合わせですよね!
秋葉原ではカンボジア時代のミエちゃんと三人で会食したのですが、だいぶアルコールも進んだ頃、ミエちゃんから「マカピーさんたちってどうして結婚したんですか?」と尋ねられたのです。
マカピー:「それって、カンボジアでも話したことがあると思うよ!」
ミエ:「だって私は離婚しちゃったし、こうしてお二人は楽しく続いてるなあって思ったんですよ」
マカピー妻:「あ、確かに他の離婚した友達からもよく言われるわ。でもさ、マカピーと高校時代に知り合っていたら絶対結婚しなかったと思うよ!」
マカピー:「どうしてさ?」
マカピー妻:「いじめて、いたぶっていたと思うよ!」
ミエ:「それって、今だって変わってないわ(笑)」
マカピーでした。
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