たとえ病となろうとも マカピーの日々 ♯1535
マカピーです。
旅先のフィリピンで発症した胸の痛みが消えません。
今日も夜明け前に胸の痛みで目が覚めたんです。
昨晩は、何とか毎日のnote投稿を終えて眠ろうとするのですが、痛みが増すばかりでした。
その事をハナさんに伝えると「じゃあ赤玉ねぎでマッサージしましょう」と患部を玉ねぎでもみほぐしてくれたので、少し楽になり眠ることが出来ました。
どうして、こんなところで発病したのか?
この症状が消えるまでには、治療には時間がかかるのか?
疑問詞が次々に湧いてきます。
昨日から水分を多めにとったので、夜半に目覚めトイレにも行くのですが、やはり胸の痛みもついて回ります。
そんな夢うつつの状態で最近Audible で聴読した中村天風関係の本の内容を思い出したのでした。
「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい」
ヨガの師に招かれてインドの山奥で修業をしていながら、結核を根治した中村天風さんの遺した言葉です。
天風さんは「自分が苦しんでいる病気を中心に考えてしまえば本当に病気になってしまう」という事を悟り、自分自身が健康を作り出せることを実践しさらに世に広めた方です。
マカピーはそのストーリーを聞いて、よくある「精神論」と最初は思っていたのですが当時の結核といえば、抗結核薬も開発されておらず致死率の高い「死の病」でした。
マカピーは結核対策の仕事に10年ほど従事した事があるので、歴史的に世界中で結核ほど恐れられた病気は無かったいう事が分かります。
何せエジプトのミイラの中にも結核の病変を持ったケースが多いというのですから!
当時といえば、胸を病んで吐血すればお金のある人は空気の良い隔離病棟で栄養のある食事をとるくらいしかできなかったのです。
いわゆる「サナトリウム」での治療ですね。
お金のない人はそうしたサービスにおアクセスできなかった時代です。
ところが、諦めの悪い天風さんは、死を覚悟しながらも「何とかして生き長らえる」ための求道者として米国へ行き、欧州を回るものの「解決策」に出会えず落胆して日本への帰途につくのでした。
ところが帰国の途中で、幸運にも先述のヨガの師に出会うという話です。
天風さんは師についてインドの山奥での修行をすることにしました。
天風さんはインド社会のカースト最下層のクラスの修行僧として他の人と一緒に修行するのですが、そもそも彼は結核の患者ですから、下手をすればそのまま死んでしまうかもしれない危険を伴う荒行だったのです。
それでも冷たいヒマラヤ山脈の雪解け水に体を浸している天風に師は時々声をかけます。
「元気かね?」
「私は結核患者です(元気はなずが無いでしょう!)」
天風の怒りの対応は当然と言えば当然ですが、師はそれを「未熟」として無視します。
石を持って丘を上り、またそれを抱えて下りる修行もありました。
「どうかね?」
「重いです。なんでこんな事をするのですか?」
「お前は昔は痩せていなかったのだな」
「はい。・・・そうか、この石の重さは自分の失った体重だったのか」
やがて、天風は自分自身が病気であることに囚われない修行の毎日を送ることになると「結核が快癒」していたというのです。
つまり文字通り「病気」とは「気が病む」事に他ならない。
そうマカピーは幾度も聞いたことがあります。
つまり冒頭にあった言葉こそがその意味だと分かったんです。
「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい」
マカピーは、急に部屋から見える東雲(しののめ)が紅く朝日に映えるのを戸外で見たくなりました。
そうだよ、マカピーは生きているじゃないか。
少しくらい痛くても動けるし、こうして景色も楽しめるじゃないか!
なんだかとても愉快になってきました。
次に田んぼの灌漑水が落ちているので水路にたまった泥が乾燥始めている様子を見てこう思いました。
「あ、これを堆肥作りにつかえそうだ」
マカピーは一塊泥をとって段ボール箱堆肥のところへ持って行きほぐして混ぜました。
さらに、足ふきマットが汚れていたので買ったばかりの洗濯機に放り込んで気になっていた事を片付けることにしました。
うん、やろうと思えば何でもできるじゃないか!
生きているってことは、こういう事だよね!
マカピーにも天風の言ったことが腑に落ちて瞬間でした。
自分から病気を作り出す必要なんてないんだ!
心まで病気にならないで人生を楽しもう!
マカピーでした。
最後までお読みいただき感謝します。自分の考えが自分を作るんだ!