晴れたり 曇ったり
鴨の親子が河原にいました
可愛らしすぎてしばし見とれてしまいました
ごん太の散歩中
心身の調子が悪い時には
日除けの帽子を目深にかぶり
まわりに気づかないふりをしてみたりして
木々も川も空も眺めずに
ただひたすら
ごん太のお尻を見ながら歩きます
今朝は空はあいにく曇り空だったけれど
愛くるしい鴨の親子を見て
木の実に集まるたくさんの小鳥を見て
そのうるさいぐらいのさえずりを聴いて
刺されたら痒くなりそうな虫さえも
可愛らしいな…と思えたりして
更年期障害は終わっているはずだけど
……軽すぎてわからなかった……
やはり加齢と共に
ホルモンバランスが崩れたり
血流が悪くなったりして
あちこち不具合が出るようです
漢方薬を処方してもらったら
日に日に気持ちまで明るくなって来ました
何度かあった目眩の原因も
このせいか…とわかったら安心できました
何十年も使っている身体だから
不具合が出て当たり前
上手に付き合うしかないですね
昨日事務所に
主人の父親を尋ねて来た人がいました
70代ぐらいの男性
主人の父親は他界して10年近く経っています
簡単に説明をすると
「そうか…またこうわい(来るよ)」
「○ちゃん(主人の父)に言うとって」と
ちぐはぐな事を言い
遠くを眺めてから静かに出て行きました
防犯カメラで見ていると
引き返して来て事務所の前を通り過ぎて
隣のスナックの前の植え込みに座りました
チラチラと20分ほど気にしていましたが
立ち上がる様子がない
町名と名前を名乗っていたので
主人の父親の葬儀の時に作った名簿を
調べてみました
住所と電話番号を確認してから表へ出て
「あら!どうされました?」と声をかけました
「足が痛くて…」と言うので
自宅へ電話をしました
年配の女性が出られて探していたとの事
迎えに来るまでの間少しお話をしました
やはり主人の父親が亡くなった事を
何度言っても理解できない
でも主人の父親が呑んだくれだった事や
ガッシリした体躯の事
ちょっとしたエピソード等を話されます
そして「○ちゃん元気かや?」と…
他愛無い雑談に切り替えて会話を続けました
迎えに来られたのは奥さん
2時間ほど自転車で探し回っていたそうです
車に乗り込む前に奥さんに
「○ちゃん のうなったんやと(亡くなった)」と
言っていました
きっと家に帰ろうと歩き回って
見覚えのある建物に辿り着き
主人の父親の事を思い出し寄ってみた
でもいなくて…本当にいなくて
はっきりわかる事とわからない事
ぼんやりわかる事とわからない事
今聞いたのに忘れてしまう事
なのにふっと思い出す事
自分自身がどうなっているのかわからない
不安なんだろうか
イライラするんだろうか
大なり小なり誰もが迎える〝老い〟
よく考えたらそんなに先の話じゃない
〝人に迷惑をかけたくない〟
迷惑なんだろうか
誰もが向かっている先にある事
迷惑って思うのは奢りじゃないかと思う
ここ数ヶ月何冊か読み続けている
内田樹さんの著書の中から引用します
どの言葉も削れなかったので
長い引用になります
自分が属している共同体に幼児がいれば、「その幼児は、自分の幼少期の姿である」と考える。少年たちがいれば「過去の少年期の私」であると考える。老人は「未来の私」だと考える。病人や障害者がいれば、「そうなるかもしれない私」だと考える。共同体の全員を「自分がかつてそうであり、これからそうなり、場合によってはそうなったかもしれない存在」であると考える。そういうふうに自我の境界線があいまいになった場合にはじめて、持続可能な共同体が成立します。そこでは、共同体の他のメンバーへの支援や配慮は「時間差を伴った自分自身への支援、自分自身への配慮」だということになるからです。そうするためには、別に博愛精神も、奉仕の心も要らない。だって、支援している相手は自分自身の変容態、自分の「アヴァター」なんですから。 他者を自分のひとつの「変容態」だと考えること。これは「自分らしさの追求」とか「自分探し」というようなものの全く対極にある発想です。「自分らしさ」を研ぎ出し、結晶化するのではなく、自分の中にある「自分らしくなさ」を拾い上げて、それを片っ端から「自分らしさ」に付け替えてゆく。 実際に、自分の中をじっと観察すると、「自分らしくない要素」がいくらでも見つかります。自分の中には幼児もいるし、老人もいる。おじさんもいるし、おばさんもいる。毅然とした人間もいるし、卑屈な人間もいる。器の大きい人間もいるし、せこい人間もいる。いろいろな人格ファクターが散乱している。でも、それは全部「自分」であるわけです。 自分の中に、そういうわけのわからない他人をたくさん抱え込んでいる人にとって、まわりにいる「わけのわからない他人」はだんだん自分の親類のように思えてくる。そういうメカニズムだと思うんです。自分を絞り込まない、決めつけないほど人間は他者に対して寛容になり、親身になる。自分の中に弱さや卑しさや愚かさを認められる人間ほど、他者の弱さや卑しさや愚かさに対して寛容になれる。逆に、自分の中の弱さや卑しさや愚かさを認めない人間は、他者に対しても非寛容になります。目標を高く掲げて、自己陶冶に励むこと自体悪いことではありません。でも、その結果、自分ほど努力していない他人に対しては非寛容になり、意地悪くなるなら、そんな努力はしない方がましだと僕は思います。