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『死ぬ瞬間』
E・キューブラー・ロス著


再読しています
前回読んだのは30代半ば

私の20代半ばから30代は
銀座での〝デザイナーの卵〟修行から逃げ
四国へ戻り
細々と服を作りながら
実家でぼんやり暮らしていました

何がしたいのかわからない
〝ちょっとどこかで働く〟
という気持ちにもなれず
ひたすら本を読み服を作る
そういう毎日でした

何か資格を取ってみようかと物色し
〝ケアワーカー〟という仕事がある事を
知りました
今と位置づけが少し違う気もしますが
(〝ソーシャルワーカー〟が近いと思います)
仕事として魅力を感じ
様々な関連する本を探して
読み漁っていました


その頃主人と出会い結婚をしました

読書ができたのは妊婦生活前半まで
この本は購入して半分ぐらいまでしか
読めませんでした

生活に追われ
ゆっくり本を手にとるという
気持ちの余裕など
どこにもありませんでした

興味を持ったケアワーカーという仕事の事も
この本の事も忘れ去っていました


この本は精神科医である著者が
余命を宣告された人たちへ直接面接をし
死に至る人間の心の変化を研究したものです

第一段階 否認と孤立
第二段階 怒り
第三段階 取り引き
第四段階 抑鬱
第五段階 受容

この過程においての
患者の言葉や態度の移り変わりを
実際に面談し観察し考察された書です

著者はしがきより

私の願いは、この本を読んだ人が、「望みのない」病人から尻込みすることなく、彼らに近づき、彼らが人生の最後の時間を過ごす手伝いができるようになることである。そうしたことができるようになれば、その経験が病人だけでなく自分にとっても有益になりうるということがわかるだろうし、人間の心の働きについて多くを学ぶことができ、自分たちの存在のどこがいちばん人間らしい側面であるかがわかるだろう。そしてこの経験によって心はより豊かになり、おそらくは自分の死に対する不安も少なくなるのではなかろうか。



初めに読んだ時には正直な話
あまり頭に入って来ませんでした
「死」というものを
全く身近に触れた事がなかったからです
転勤族で核家族だったため
祖父母との関わりは無く
その死に際しても
全く余所事でしかありませんでした

でも歳を重ねるにつれ
主人の祖父と父
私の両親そして友人とお別れが続くと共に
自分自身胃がんを患い
「死」が遠くの余所事では無くなりました

そんな今この本を読むと
いろいろな言葉が
身に沁みるような感じがします

そして一番に思った事は
自身の「死」に直面して
様々な死後のための整理ができたり
語り合う機会が持てた人は幸せなのでは?
という事

例えば突然の死に見舞われた人や
〝認知症〟となった人は
その死に至る過程の最後を
わからないまま過ごしているのだから
想いを遺しているのではないかと

でもでも
母は自宅で暮らした最後の半年ぐらいの間
たくさんの物を捨てたり譲ったりしました
尋常ではない整理の仕方だったので
「あなたが死んだらちゃんとするから!」と
何度も言ったぐらいです
母はきちんと自覚し向き合っていたんですね
なのに私は娘として
80歳を迎えた母の「死」を
まだまだ遠い事だと思っていた訳です

自宅で倒れてから死までの1年間
母はサ高住と病院で過ごしました
〝認知症〟という事になっていましたが
様々な変化の1つ1つを思い出すと
〝いろいろな事がよくわからない〟
〝自分自身の事がきちんとできない〟
そんな〝認知症という病人〟だったのか?
と疑問をいだきます
実は何もかもわかった上での
振る舞いだったのかも知れません

最後の最後に
「またこの役立たずが迷惑かけてる!」と
私の目を直視して言った時の母は
認知症と言われる前の母でした


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