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2024/11/06日記_わたしは最悪。2度目、の感想

『わたしは最悪。』を配信で観た、まえに映画館で観たので、今回が2度目になる。街並みを含めて、映像が透き通るように綺麗でノイズがない。そのことが、主人公のユリアをはじめ登場人物の言葉や動きに集中させてくれる。

最初に観たときのことはかなり忘れてしまっていて、ユリアの自分探しばかりが記憶に残っている。成績が良いという理由で医学部に入学したユリアは、学ぶほどに自分に合ってないと気づく。自分は身体より内面に興味があると悟った彼女は、心理学を移行する。学び始めるも、早々に心理学も興味がないと悟る。こんどは自分は視覚に関心があると気づき、カメラマンになることにした。

ユリアが自分に素直なのか、ただ根気がなく逃げているのか、自分探しをしているようにも映る。自分探しというのは、青春の一部でもあるし、モラトリアムで、多かれ少なかれ誰しもが通過する。ぼく自身、今のままでいいのだろうか、みたいなことはこの歳になってもおもうことがある。定まっていない自分は、自信をもてないし、心の傷にもなる。だから自分探しを自分と重ねてしまい、そこに注意が向かったのだとおもう。

今回あらためて観ると、ユリアが女性だからこその悩みに直面していることに、注意が向かった。30歳前後になると子供は?と聞かれ、母になるかこのまま行くかの岐路に立たされる。子どもをもつかどうかはカップルふたりの問題であるにも関わらず、女性の方が責任を負われがちになる。何者かになりたいと焦るユリアに、母になるか否かという、さらなるプレッシャーが加わる。

ユリアという人が、いくつかのコントラストで描かれている。ユリアが長く付き合ったアクセルという10歳以上年上の男性は、成功したコミック作家だった。写真や物書きなどクリエイティブな仕事をしたいユリアにとって、彼は羨ましいとともに、自分を焦らせる存在だった。

アクセルの次に付き合ったのがアイヴィンは反対だった。アイヴィンはふつうのカフェの店員で、野心的なところはない。ユリアはアクセルのようなプレッシャーを感じさせないアイヴィンに魅かれた。けれど時が経つと、ユリアはそんな彼に物足りなさを感じてくる。

アクセルは文化系で、アイヴィンは身体的・感覚的な存在であることも対比的だとおもう。前者が頭脳で、後者が身体的ともいえるかもしれない。ユリアは、そのどちらにも関心をもつ中間の存在だとおもう。

終盤、元カレのアクセルが癌になり、ユリアは見舞いにいく。容態が悪化していく彼に、ユリアは本音の話をしながら、気持ちを整理していった。ユリアは妊娠し岐路について悩み、流産によりその岐路は消滅し、彼女は安堵する。そして、映画のスチールカメラマンとして働く様子で終わる。

そのラストシーンでのユリアの表情は、落ち込むでもなく高揚感があるでもなく、落ち着いていた。人生は問題だらけだから、またその岐路に立つかもしれないし、立たなかもしれない。いまは自分の道を進めばいい、自分のペースで進めばいい、そんな感じがした。

ラストに流れるのはジョビンの「三月の水」のカバーだった。再生の曲だから、そういう意味が込められているのだとおもう。

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