屁理屈の言い訳の為の屁理屈
こんばんは、夕景に馴染む人々
何というか、寒いですね。
という下書きも温まり、暑くなってきましたね。
そして、というかそーいえば。
たまに屁理屈が多いと言われます。
それでいてそもそも僕は屁理屈というものが分からない、とも思う。
小学生がやる所謂"なんで攻撃"との違いがわからない。
↑もしかして分からないことをそのままにしておかない態度が屁理屈??
空気は読めるようになったので無自覚に続けることはなくなったんだけれども飲み込んでしまった"でもだって"はモコモコと胃を押し広げるような不快感をもたらして、もたらしたままになる。別に排泄もされずに種として居つくそいつは思い出す度レントゲン写真みたいに曖昧なまま回顧を催す。
小学生の頃は母親に反論する度「屁理屈はやめろ」とピリオドのように告げられた。
でもその頃から僕にとって屁理屈は/反論は、論破の為の道具じゃなく純粋な疑問だったから
【屁理屈は悪い+お前は悪いことをするな=お前は屁理屈を止めろ】
という方程式に納得できなかった。
正直未だに屁理屈そのものの不人気さには首を傾げてる。だって納得したいから検証する訳で、納得したいのは愛したいからなのに、、、
相手頼みなのがキモいんかな
僕はいつも"どういうつもりか"ばかりを気にして生きてきた
優しくしようというつもりで傷つけるとか、仲良くしようというつもりでも嫌われるとか、今でもありふれた話でしかない。
母親は偶に「馬鹿にしてるんでしょ」ってな感じで怒ってた。こんなに言っても言うこと聞かないなんてどうでもいいと思ってるんでしょ、みたいな。でもどうでもいいと思ってるかどうかを言動から遡るように断定されるのは嫌だった、母親は体現される言動に感情の真相をみたんだろうか
僕は自分が"どういうつもりか"を侵害されるのが結構許せない、成人してから動機の力の無さに愕然としているけど、それは他者が触れていいのが/触れられるのが結果だけだからだと思った、どんなに好きだからしてくれてると思うことでも純粋な悪意からそう行動しているのかもしれない。僕がバイト先でハキハキ働いてるのは生きる金を稼ぐためじゃなく、死ぬ為かもしれない。それを知らせられないのは本当にどうしようもない、合理の旗の下では動機は消え、過程は圧縮されてから結果が統合されてゆく。
僕は自分の本質を動機にみているけど、それが日常や意識から排除されることを歓迎する。そうでもしなければ動機は守られない。
僕のこのタイピングのどれだけが動機を持った行動だろう、根拠のある行動だろう。
そんな疑問の積み重ねは帰納的な動機の算出さへ拒否して、本当は何にも考えられていない人間像を詳らかにしてくれる。僕が右足を出して今から歩き出すのも何でかは分からないが先に左脚を下ろしていたからにすぎない。
短歌↓
そろばんが弾けましては昨日から猫を飼ってる人になりたい
鬼に捕まったからって鬼として笑って砂を蹴って翔った