僕の原点noteと減点note 第二部
これは、第一部の続きです。
https://note.com/maayablog/n/n3a8a5262519e
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第二部 僕の減点note
そして、当の本人である僕。
幼少期はガキ大将で、
小学校では、すごく荒れていた。
小1で、仲の良いN君と、いじめをした。
小2の先生は僕をよく理解して、いつも授業中でもプロレスごっこをして構ってくれた。
でも、
いつも授業崩壊を招いていた。みんなの注目が集まる事に抵抗がなかった。
むしろ、望んでいたのだと思う。
その頃から、「減点ノート」が作られた。
離席 -1点
お喋り -1点
暴力・暴言 -2点
教室を飛び出す -2点
そこに加点は書かれていなかった。
僕はルールを守れなかった…
-5…-12…-18と引かれれば引かれる程、荒れた。
それらは、ただの数字だった。
受動的に設けられた制限は反発を産み、引き算をされると心がバラバラになる。
主体性の大切さと褒めることの重要性を学んだ。
小3と小4は怖い先生だった。先生達の狙い通り、大人しくなり、くすぶっていた…
その頃は家で荒れていた。
兄らしく、妹に何一つ譲る事も出来ず、母に反発していた。
でも、今でも良く覚えている事がある。
兄と妹に挟まれ、学校はエネルギーの発散ができず息が詰まっていた…
そんなある日、なぜか
母の膝の上に頭を乗せていた。
そして、頭を撫でられながら
「いつも、あなたの事が1番気になってるよ。」
「仕事行く時も、大丈夫かなぁー?って思う。」
「今日は学校で楽しく過ごせてるかなー?って1番心配なんだよ。」
と声をかけられていた。
小4ぐらいだった僕は、まるで赤ちゃんのように心が暖かくなっていた。
そんな記憶を今でも鮮明に覚えている!
抑制の裏には反動がある。
抑えるのではなく、発散することの大切さを学んだ。
そして、
自分の存在意義は、自分自身よりも誰かの言葉や態度によって生まれることを知った。
小5になると、また学校で落ち着きがなかった…。
ちょうど周囲の子達が性への芽生えの時期、下ネタの連打、流行った遊びは女子の胸を押すこと。
痛がっているのを見るのが目的だったと思う。
今、考えれば謎だし、幼いし、犯罪だなと思う。タイムスリップして、殴ってやりたい気持ちだ!
中でも、僕は酷かったらしい…
その酷さから、教育委員会で話題になっている!と指導係の先生に言われたことがある。
脅しだったかもしれないが、それ程に荒れていたのは事実だった。
幼い時から親友だった、N君も同じように荒れていた。
2人は、いつも一緒にいた。いつも一緒に怒られて、いつも大人への不満を吐いていた。
僕らは小6になると、グレ度がピークだった。
僕の流行りは、高い所にぶら下がること。
・3階のベランダの外側
・登り棒の1番上
・プレハブの上
何も怖くなかった。むしろ、刺激的だった。
ある日、いつものごとく友達の前でベランダにぶら下がっていた。
隣の教室で、窓を閉めようとする先生と目があった。
先生はすぐに駆け寄ると僕を引っ張りあげ、
「ばかやろー!落ちたら死ぬんだぞ!!」と怒鳴った。
何も感じなかった。でも、今でもその時の事はハッキリと覚えている…
N君は、中学の先輩達と遊ぶようになった。
いつしか、学校にも週2〜3回しか、来なくなっていた。
その先輩たちに誘われて、暴走族に入ったようだった。
彼も日に日に荒れていて、僕とN君が一緒にいて会話をしているだけで、先生から嫌味を言われ、謎に怒られた。
そんな風に問題を起こし続けて、卒業をした。
女の子には優しくしようねと誓った。
そして、
いつからか俯瞰して見ているもう1人の自分がいることに気づいた。
小学校では、とにかく迷惑しかかけていないし、母親にも心配をかけたと思っている、
思えば、
母はいつも学校と電話していた。
そして、
僕は、なぜか学校の事で一切、怒られたことがない。
母が学校から何を言われたのかも、どんな酷いことを言われたのかも知らない。
一つ確かなことは
いつも守ってくれていた。みたいだ…
無償の愛と見捨てない心。
俯瞰した僕は心に刻んで、中学に入学した。
長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございます♪
第3部で、終わりです。
※これは、僕のライフストーリーワークの一環です。
第三部に続く。
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