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どうせ、わかんねえんだよと思えるまで

少し前に、別のnoteアカウントで「餅のような灯り」というエッセイを書いた。そんな話とか、恋人と映画館に行くことが耐えられないこととかを。


深夜に、電気を暗くしてリビングの床に寝転んでいた。

その時、ぼーっと真上の四角い電気を眺めていると、目が焦点を合わせるように、ぐっとそのオレンジ色の電気に吸い込まれて、周りが黒い縁で覆われ始めた。

その見え方を何度か楽しんでいると、電気がオーブントースターの中で膨れある餅のように見えてきたのだ。そしてすぐに書いたのが、「餅のような灯り」というエッセイ。


そして、私はこれを書こうと思った瞬間も、書いている最中も、書き終わった後も、こうやって景色を”見れる”自分を心底尊敬した。

それと同時に、私は浅い共感に幾度となく苛立ちを抱えてきたことを何となく思い出した。

同じ角度で”見れない”人に。


そういえばハタチくらいの時、私は「年上が好きだ」と言っていたのだが、その理由は、精神年齢が高いからだった。

というか、年を重ねると人は冷静になり、知的になっていくものだと信じていた。

けれど、実際大人になってから学びに時間を費やす人の方が少ないし、芸術などの文化を楽しむ人もあまりいない。


当時は、話を聞くことが上手い年上に対して、「やっと、こういう話ができる人に出会えた」と思っていた。

“こういう話”というのは、流行りのものに何も興味はなくて、役に立たないものに惹かれることとか、同年代とは話が合わなくて、恋バナや噂話が面倒なこととか、どんな価値観を話ても変だと言われるけれど、それは自分にとっては普通であることとか。

そういう話。

けれど、この真相というのは、意思疎通はできていないくて、きっと私は”ハタチの若い女”として、いつでも自分のものにできるようにとりあえずどんな話も頷いておこう、と、思われていただけだったのだろうと思う。

これは今だからよく分かる。
だって、本当に自分のことを理解している人になんて出会っていないから。

けれど、それで良い。
それが良くて。

これは決して悲しい物語ではないのだ。


この前yotube LIVEで「デートで行きたくないところ」という話になった。

私の圧倒的一位は映画館である。
感想を共有して、一度も理解し合えたことがないというのもあるが、もっと深掘っていくと、私は相手がどんな角度から物事を見つめているのかということを知りたくないのだろうと思う。

自分は、そういう視点も理解されたいと思って生きてきたくせにね。

映画の感想は特に、ある程度”分かりやすい”創作物を見ているからこそ、映画が終わった後に放つ一言で、その人の見え方と、心の揺れ方が、全て伝わってくる。

こうやって言葉にすると胡散臭いというか、本当にそんなんで分かってんのかよと思われそうなのだけれど、これはなんというか特技のようなものだったりする。


宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見て、「よく分からなかった」という感想を大衆は抱いていた。

私の感性というのは、きっとそういう大衆の目に捕まらないように生きている。
「よく分かった」と言えば、袋叩きにされるような、そんな感性なのだ。


音楽家の彼とお付き合いをしていた時、次はこのイベントに出るのだと画像を差し出された。

そして、そこには、社会問題についてあれこれ書かれていて、これについて言及するために僕は音楽をやっているとかどうとか、そんなことが書かれていた。

私がその熱い文字を読んでいると、彼は横でこう言った。

「こういうの、まあや好きそうだよね」

私は、適当に「うん」と返しながら、1年ほど付き合っている彼も、私のことはそんなに”分からない”ものなのかと、ほんの少し考えた。


私の表面というのは、「難しそうなことばかり考えている」というように見えていて、それは合っているようで、実は合っていない。


こういう、ピントのズレた私への見え方を知るたびに、私は人と理解し合うことへの期待を減らしていった。

けれど、これまでに何度か、この人とは感性を言語化し合えるという人と出会ったことがある。

そういう人たちは、大抵文学や映画好きだった。
そして、こういう人たちの共通点があって、それは、深そうに見える浅い共感によって心を持っていかれるということ。

そもそも、文化的なものに熱意があり、そこについての感想を共有したいと思う人間は、そこそこ少ない。マイノリティとまではいかないのかもしれないけれど、社会人になって同じような作品を見ている人に出会うことは難しいくらいには、少ない。


だから、「これ、見たことあるよ」という言葉に、意外と弱い。
けれど、ちゃんとそこには、疑いの目もあって。

そして、最終的に、誤魔化しが上手い、”エモい”雰囲気を愛するサブカル人間に、心を奪われていくのだ。


いい、恋愛ができているといいのだけれど。


私は人から、”分かられない”ということがこんなにも尊いことなのだと思うまでに割と長い時間がかかった。

人から分かってもらうことをテーマにして生きてきて、今は、誰も分からないものを存在させることが好きだ。


そう思うと、人間の分り合いたいという本能のような力は強力なのだと、改めて思う。分かり合ったとしてもきっとその先でまた何かを望むのに。


「分かる」という言葉で共感すると、人は喜ぶし、昂るし、なんならそこから好意が生まれるかもしれない。

「分からない」という言葉に、落胆し、分かってほしいと思い、分かられない自分を嘆く。

けれど本当は、分からないままでも、十分すぎるほどに意味がある。


世の中で「分かる」という言葉の渦が巻き起こっていけばいくほど、きっと私と同じような分かられない者たちは、分からないままにしておくことに勇気が必要になってくる。

それはきっと、世間が、普通が、当たり前が、「分かる」ということこそ意味があり、価値があるのだと思い込んでいるから。


だけど、私たちが私たちのままでいいように、分からないものをそのまま抱きしめていていいのだ。



p.s 過去の恋人よりSNSで見てくれているみんなの方がきっと、まあやへの解像度は高いよ

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