感性
私の幼少期の最も古い記憶。
幼稚園に入る前、3〜4歳の頃。
母に連れられ通っていた幼児教室。
知らない子どもが集うその空間に、いつまでも慣れることは無かった。
毎週同じメンバーの親子が顔を合わせ、私以外の子どもたちは、幼い子どもらしく伸び伸びと気ままに交流しているように見えた。
私はどうしても馴染めなかったし、友達になりたいとも思わなかった。
早く帰りたい。
とにかく、なんか嫌だった。
教室の最後に受付のおじさんが小さなお菓子をくれることと、帰りにファストフード店でランチができることだけを楽しみに通った。
工作や絵本を読む時間はまぁ良かった。
とりわけ楽しかった記憶も無いが、まぁ良かった。
工作や絵本を読むこと自体は好きだったから。
問題は、お遊戯の時間だった。
子どもというものは、基本的にお遊戯が好きというのが社会通念なのだろうか。
「みんな大好きだよね!さぁ、みんなで歌って踊ろう!!」というテンションに、全くついて行けなかった。楽しそうに笑顔で飛び跳ね、大声で歌う私以外の子どもたち。無表情で俯き固まる幼い私。
ただただ、無表情で俯いていた。
時々、申し訳程度に少し手足を動かした。
それを誰かに叱られたり笑われたりすることは幸い無かったけれど、なんとなく大人たちが困っているのは分かったし、踊ったほうが良いのだろうということは分かっていた。
でも、楽しくないんだから表情は固まる。
踊りたくないんだから、身体も固まる。
子どもなのだから、至極当然のことだった。
心と身体が繋がった、とても自然な反応だった。
なんか、違う。
私はなんだか、周りと違う。
なんか、みんなと同じようにできない。
みんなが楽しいとき、私は楽しく無かったり。
みんながそんなに嫌じゃないことが、とても嫌だったり。
そんなことが、度々あった。
でも、自分でも何故かは分からないから、黙って俯いていることしかできなかった。
ちょこっとだけ、周りのみんなとずれた感性。
成長と共に、それをできるだけ隠した。
浮かないように気をつけた。
無理をして周りに合わせることもあった。
時々、溜まった無理をガス抜きするように、ぼーっと天井を眺めたり、揺れるカーテンを眺めたり。
風のにおいを胸いっぱいに嗅いでみたりした。
空中に浮かぶ塵を目で追ったりも、した。
そうしていると、心地良かった。
そんなことは、誰にも話したことが無いんだけど。
そういう時間が私にとって結構大切だったことに気が付いた。
そして、そんな「感性」を案外大切に生きてきたことにも。
ギュッと、キュッと。
少しだけ胸が締め付けられる感情に合わせて抱きしめた。
誰にも理解されないだろうと密かに、心の奥で。
普通とは少しずれているのかもしれない、私の感性。
ちょっとだけ、たぶん、浮かんでた。
ずっと。