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【エッセイ】 川上三映子『すべて真夜中の恋人たちを』 触れる文学

部屋が本で片付かない。もちろん部屋を片づけることはできるのだが、本が床を占有しはじめ、部屋が片づかない。部屋は片づくのだが、部屋が本で片づかないのである。
中古家具屋さんに安い本棚を見つけてほしいと頼んでいるのだが、わたしの希望サイズの中古本棚を見つけるには2・3ヵ月かかりますよと言われた。あれから何ヵ月経過したのだろう。2ヵ月になるだろうか。まだ3ヵ月にはなっていないけれど、そろそろ本棚がほしい。「本棚が手に入れば部屋はすっきりと片づくよ。」そんなふうに言い聞かせる。わたしがわたしに言い聞かせる。いっそのこと、高くてもいいから新品を購入しようか、そう思いながらも、「下鴨納涼古本まつり」に行き、川上三映子『すべて真夜中の恋人たち』を手にとってしまった。

わたしは小説を読むことはあまりないのだが、川上未映子の文学が好きだ。というか、なぜか川上姓の文学が好きなのだ。川上弘美の小説とか。

小説には作家特有の時間が流れていて、その時間感覚がわたしに合わないことがある。そんなときはイライラし、途中で投げ出してしまう。だが、どういうわけか、両作家の小説の時間の流れは、わたしの時間感覚に浸透圧が良いのだ。

川上三映子『すべて真夜中の恋人たち』は触れる文学である。

文学に疎いわたしにはなんともいえないのだが、触れる文学の系譜はあるのだろうか。
いのちに触れる、琴線に触れる、といった精神の範疇に属する触れるではなく、即物的・物質的という、対象との直接性の意味において触れるタッチtouch文学だ…こんな表現はないと思うけれど…。

日常生活では、触れるという感覚は薄らぐ傾向にある。たとえば文字文化。電子書籍の出現により紙ベースの文字の物質性は光に還元され、電源をオフにすれば文字は消滅する。紙ベースに印字された文字は本を閉じたとしても、視覚からは閉じるという行為で遮断されはするものの、文字としては在り続ける。

写真や映画においても同様の傾向にある。フィルムからデジタルへの移行である。デジタル以前の映像は、フィルム上に定着された形や大きさの異なる粒子のランダムな配列の集積だったけれど、デジタルの出現により、それは均一に配列された等質な粒子(ドット)の集積に置き換わった。フィルムには粒子のランダムな形、大きさ、配列があり、ランダムはノイズを発生させ、ざらざらとした触感を視覚的に出現させる。デジタルの場合、どこかつるりとした滑らかな表面…デジタル映像に表面はあるのだろうか…でしかない(デジタル映像にフィルムの質感を出すため、意識的にノイズを入れることもある)。

フィルムの可触性を見事に示す実験映画がある。未撮影のネガフィルムを現像すると透明なフィルムができる。先端と終端を繋ぎループフィルムを作り映写機にかける。スクリーン上に現れるのはフィルム上に結晶化された映像ではなく、映写機の光源から透過された瞬く光にすぎない。そこでループフィルムに指紋をつける(このときはじめて作者が刻印される)。フィルム上に定着された指紋はスクリーン上に投影され、指紋は次第に増えていく。次にフィルムにパンチで穴をあける。指紋と同じように、あけられた穴はスクリーン上に投影される。穴で破損したフィルムは穴が増えるにつれ、やがてはフィルムの状態を失いはじめ、単なる廃棄物質の破片となり、床に散らばる。そのとき、スクリーン上に投影される映像はフィルムを透過した光ではなく、映写機の光源の直接のまばたきにすぎない。これはフィルムの消滅であるばかりではなく、映画の発生と消滅の物語でもある。フィルムに触れることによる映画史の誕生と消滅の明示。フィルムは、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で「アウラの凋落」と名づけた複製(テクノロジー)なのだが、いま述べた実験映画では、フィルムの唯一性という意味で、アウラの出現という現象を反証的に生じさせる。

小説に戻ろう。

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』表紙

川上三映子『すべて真夜中の恋人たち』は触れる文学である。

語り手であるわたしは校閲を生業とする30歳代半ばの独身女性。人づきあいはあまり得意でなく、外出には酒の力を借りる。人と会ってもただ話を聞き肯いてばかりのことが多い。あなたには自分がないと女ともだちから批判されるけれど、校閲という仕事にしても、書かれたものの中に入っていくことは禁じられており、資料・テクスト間での冷徹な眼差しとしてのわたしがいるのみである。唯一の自分といえば、誕生日に真夜中の街を散歩し、真夜中はなんてきれいなんだろうと思うことぐらい。そんなわたしなのだが、ある出来事から白髪の少しまじった20歳ほど年齢の離れている高校の物理学教員だという三束と出会う。

わたしと三束は毎週木曜日の夜、喫茶店で会うようになる。三束はよく光の話をしてくれる。やがてわたしは三束に惹かれるようになるのだが、生きているという実感を失っているわたしはそのことが告げられない。わたしにとり世界は空虚であり、そこにはわたしという実体は存在しない。わたしとは何かの引用にすぎず、そんなわたしを実体あるわたしと思い込んでいるにすぎないのかもしれない。世界から触れられるわたしはいないし、わたしの触れることのできる世界もないと思う。

三束の誕生日をレストランで祝ったわたしは帰りの夜道、「ここにはなにもないのでしょうか」と三束に尋ねる。「ここというのは」と三束。「ここです」とわたし。「あります」三束は言う。「手を動かすと、こう、何か感触があるでしょう?」。わたしは三束に促されるまま手を動かす。「あります」とわたしは両手でぐるぐるさせる。「あるでしょう」三束も手で円をかくように動かす。「空気の移動みたいなものを、感じませんか」。「感じます」とわたし。「粒子に触れているんですよ」。「粒子に?」とわたし。「そうです。粒子に」三束は言う。そのときわたしは初めて触れる世界を感じる。物質で満たされた世界を。わたしは三束の指さきをしっかりと握り、その指先をじっとみつめる。「さわれています」。触れることで胸をしめつけられたわたしは小さな声で言う。そして涙があふれ、涙は粒になって夜の中へ落ちる。このようにして主人公であるわたしは、触れる世界を快復させる。

触れることは喜びであり快楽でもあるのだが、ときには “わたしを/あなたを” 怯えさせもする。触れるとはそんな世界を無条件で引き受けるという、世界とわたしとの直接性でもある。触れる、とはそういうことであると、『すべて真夜中の恋人たち』はわたしたちに伝えてくれる。

光に触れる、都市に触れる、あなたに触れる、わたしに触れる、物質というものすべてに触れる。2011年、編集の手伝いをしているとき巻頭エッセイを執筆したことがある。「東京の夜景は空虚だ」、東京の夜景を見てそう思った。

東京に住んでいたころ、特別な日には、高層ビルの最上階のレストランで食事をとることがあった。そんなときはきまって窓側の席を希望する。おいしい食事と楽しい語らい。そして東京の夜景という舞台装置。ビル群の窓や繁華街を彩る光が、東京という巨大な都市をどこまでも押し広げる。まるで東京一面がクリスマスのイリュミネーションで飾られたかのように、キラキラと輝いていた。夜の静寂に、東京の形がくっきりと浮かび上がっていた。じっと眺めていると、わたしたちをどこか知らない場所へと誘ってくれるような気がしてくる。都市の放つノイズを忘れさせ、わたしたちの精神をひとときの平安に導いてくれる浄化装置のようにも思えた。その光の瞬きは銀河系の宇宙を想わせるものがあり、おもわず、美しい、と呟く。しかし、この美しさにはどこか儚さも感じる。都市には人びとのどろどろとした生の営みがあるはずなのに、高層階から眺める夜景は、人の存在を感じさせない、ベールで覆ったようなよそよそしさがある。ビル群の幾重にも連なる窓の光も、建造物の持つ物質感を浮遊させ、パソコン上に制作されたサイバー空間と同質のように見えた。その意味で、東京の夜景には重力がない。そんな無重力感ゆえに、わたしたちの精神は社会の重圧から解放され、おもわず、美しい、と呟くのかもしれない。この光の織りなす世界には確かに東京という実体はあるのだが、重力も質量もないため、触れることはできない。光とわたしたちは、超えられない層で隔てられ、その関係はどこまでも透明なように思えた。そんな夜景は空虚だ。わたしは光と眼で触れ、手で触れあいたいと思う。光はそうあってほしいと思う。そしてあの日以降、その夜景の背後には、もうひとつの闇が潜んでいることに気づいたのだ。

巻頭エッセイより

この文は福島原発大惨事の3カ月後に執筆。あの時点の、わたしの気持のぎりぎりの反照でもあった。

触れる文学。わたしたちの記憶の古層から、触れるという実体は立ち現れるのだろうか。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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