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《映画日記17》 記憶を復元する(Vol.2)蔦哲一郎/中村拓朗/イ・チャンドン/ジョナス・メカス/ほか

(見出し画像:ジョナス・メカス『Sleepless Nights Stories』)

ある月の初日に書いた映画日記を、うっかりその前月の映画日記に上書きし、前月の記録がそっくり消えてしまった。
そこで、その月の私のツイートと記憶を頼りに、失った記録の復元を試みた。おそらく1/3くらいの復元となっただろうか。時系列による復元は無理なので、映画タイトル別・項目別復元を試みた。
今号はVol.2(最終回)です。

本文は
《映画日記16》記憶を復元する(Vol.1)メカス/ホアン・シー/アルフォンソ・キュアロン/ほか
の続編です。


アミール・ナデリ『山〈モンテ〉』(2016)

あらかじめ附置されたイメージがただただ音響とともに流れてゆく。その行き着く先はモンテの破裂。ここには未知なるもの、つまりショットという暗闇がない。音響が暗闇を創出するわけではない。音響はすでに暗闇にあるのだ。
観賞後、『山〈モンテ〉』に煮え切らない思いを感じながら蔦哲一郎『祖谷物語ーおくのひとー』(2013)を思い出した。欧米的な『山〈モンテ〉』と東洋的な『祖谷物語』。『山〈モンテ〉』を見ることで『祖谷物語―おくのひとー』の素晴らしさを再確認した。

『祖谷物語―おくのひとー』を見たのはずいぶん前のことだ。備忘録を兼ねて書いている『映画日記』に私はこう書いている。

「メルヘンとは下降する運動であり、ファンタジーは上昇する運動である」(別役実)とする。ジブリ作品に見られる夥しい上昇運動。これは下降するための上昇であり、それはひたすら下降に奉仕するための運動である。とすれば、ジブリ作品の本質は下降運動であり、それはメルヘンといえる。日本は優れたメルヘンの産出国である。では、日本映画にファンタジー、つまり上昇する映画は存在しないのか。
そんなふうに思っていたら、蔦 哲一朗監督『祖谷物語』に出会ったのだ。
〈山→村→東京〉という下降運動。豊かな自然から環境破壊という下降運動。山での自給自足から下界へと移り住むという下降運動。女子高生・春菜や村人たちは下降することでしか生きる道を見いだせないのだが、それら下降運動はやがて、上昇という結末へと結実する。
蔦哲一郎『祖谷物語ーおくのひとー』に興味のある方は下記webを。


エレン・コンスタンティン『ノーザン・ソウル』(2014)

出会った音楽はノーザン・ソウル。これぞノーザン魂とでも言いたげに他グループたちとの仁義なき戦いが始まる。私の人生にそんな激烈な戦いはないけれど、新たなEP版を探してレコード屋をめぐりするジョンとマットはDJ魂を展開させる。嗚呼、これは『SRサイタマノラッパー』のラップ魂と同じくある種の病だ。面白い。


クリント・イーストウッド『運び屋』(2019)

すでに在る出口からすでに在る入口に粉を運ぶ88歳の男。運ぶという距離が利益を生むのだが、その距離を切断しようとする国家・暴力装置が介入することで顔に深く刻まれた運び屋の皺がおそらく2本は増えるという、ただそれだけで充溢する孤独な男の物語。私には無理だがこれも素敵な人生。


中村拓朗『西北西』(2018)

3はいつだって不安定だ。2はたとえ「いつもの喧嘩だよね」が生じたとしてもとりあえずの安定を保つ。しかし、そこに1が加わることで不意に不安定へと移行する。

「私たちなんて言わないでよ」とナイマに向けるアイの言葉。同じ言葉はケイによってアイに向けて反復される。前者の「私たち」とは「あんた」と「あの人」であり、後者の「私たち」とは「あんた」と「私」のことである。「あんた」は眼前の対象であり、「私たち」のひとりは語る主体により差異が生じる。この差異が不安定を生じさせ、3から放擲したい、あるいは、してほしい存在なのである。『西北西』はこのような差異をre-デザインすることでとりあえずの救済へと向かう。

身体の、あるいは眼の接近としてのクローズアップ。そして見つめる対象としてのロングショット。それらはいまひとつ、という感じもしないでもないが、監督・中村拓朗の次なる眼差しを見たい気持ちもある。
「私たち」である3人のうちの2人、韓英恵とサヘル・ローズの魅力は私の周知の俳優なのだが、アイを演じた私にとり未知の俳優・山内優花の映画フレームへの出現を喜びたい。


ジェームス・グレイ『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』(2016)

仲間ではないが敵でもない存在。魂のもとへ送るという思考。二元論ではなく別なレイヤー(層)を知る者は高度な文明を持つ者だと言える。そういえばフォーセットが塩素ガスで目をやられた時、「見る」から「触れる」へと知覚を変位させた。これも層の豊かさだ。


日記

映画が終わり、夜10時過ぎに相国寺境内を抜け自宅へ。これは映画反芻のための最適化経路でいつもの楽しみ。闇に包まれた境内と夜の冷気が熱量を下げてくれて心地よくなる。

メカスにとり「映画日記」は、いわゆる「日記」と「ほぼ同じもの」で、「道具を変えただけにすぎない」と主張している。三宅唱『無言日記』の場合、物語との境界らしきものと一瞬触れ合いながらも、ショットの連続性を遮断することでギリギリ逃げ切るというワザを見せているから、日記とは異なるものなのだろうか。


ウォン・ジョン(黄進)『誰がための日々』(原題)一念無明、香港(2015)
原題の「一念無明」とは、仏教の「一念無明生三細、境界為長六粗(ひとたび無明を念ずれば三細生じ、境界は縁と為りて六粗を長ず)」から取られており、真理に暗いと余計な煩悩に悩まされる、という意味である。
映画を見るとは他者の物語に眼差しを向けるというのが私の基本スタンスで、その中に自己を投影する、もしくは見出すということもしばしばある。だが本作は他者という間接項ではなく、ダイレクトに自己と登場人物の属する社会へと向かっていくことにただただ狼狽する。悲劇的な結末でないことが、私の思考を地上に繋ぎ留めてくれる。救済は必ずあると念じたい。


イ・チャンドン『ペパーミント・キャンディー』(1999)

男の背後から語りかけるバーの女。そして貨車の陰で怯える女子高生。夜の光の中で、彼女らは惹かれながらも結ばれなかった女の面影を浮かび上がらせる。これは『バーニング』(2018)で見せる闇に浮かぶ怪しげな光だ。この2人の女性のショットに私は耽溺した。
『ポエトリー アグネスの詩』(2010)の橋上から川を覗き込む背後の姿と振り向きカメラに向かってわずかに微笑む少女のショット。そして『ペパーミント・キャンディ』の男の正面のショット。 背後と正面、どちらも死が救済となる永遠のような恐ろしいショットだ。


七里圭『あなたはわたしじゃない サロメの娘 ディコンストラクション』(2018)

名古屋から京都への帰路は「各停+快速」と固く決意していたのだけど、「固」いって簡単に「柔」らかくなるものなのだね。映画が終わり名古屋駅に着いた時には固く「各停+快速」と決めていたのに新幹線改札口に向かっていた。こういうのも柔らかいな思考?
「固」と「柔」の二人がいて、どちらがわたしであり、あなたであるのか。あるいは、そのどちらでもないのか。「あなたはわたしじゃない」というわたしは本当にわたしなのか幽霊・幻影なのか。そこに身体を想定するとその言葉の発声態は?さらに2種の衣服。衣服はあらかじめ身体を想定しているものだ。

衣装といえばアンゲラ・シャーネレク『マルセイユ』(2004)を思い出す。ヒロインが黄色のワンピース姿でマルセイユのドイツ領事館に入るシーン。黄色という知覚と知覚を纏った身体。マルセイユという都市の身体。マルセイユの外部でもあるドイツ領事館という身体。シャーネレク作品では他にも夥しい生身の身体の提示があり、しばしば衣服が介在する。シャーネレク再考。


藤元明緒『僕の帰る場所』(2017)

10年以上前になるが、難民・移民問題に取り組んでいる弁護士から、日本在住のミャンマーの若者について相談を持ちかけられたことがある。日本の高校に進学できなければ強制送還されるかもしれないと。当時のミャンマーは政情不安で、強制送還は混乱の渦中の人となることを意味した。現在でも日本政府の基本姿勢は変わらず、私たちの中にも難民・移民を忌避する者は多い。その人たちに支えられてか、難民と移民の違いも分からない者が首相として政治のトップに君臨している。認識の最貧国・日本。世界はこの首相を笑った。

藤元明緒『僕の帰る場所』で注目したいのは政治的視点ばかりではない。生活者を主題とすることで、“フィクション/ドキュメンタリー”のカテゴリーを崩し、リアリティのダイナミズムを創出しているように思えた。この手法はポルトガルの監督ペドロ・コスタを想起させるのだが、彼は自己を演じさせることでリアリティの強度を高めた。だが本作は、自己というよりも、背景としての自己のアイデンティティを演じることで、“フィクション/ドキュメンタリー”ではこぼれ落ちてしまう、生のリアリティをこえた、生の豊かさを掬いとることができている。

本作が興味深いのは難民・移民という問題もさることながら、出演者の自然な演技。とりわけ家庭のシーンである。兄・カウン、弟・テッ、母・ケインの絡み。これはフィクションではなく、まさしくドキュメンタリーというに相応しい。映画解説によると母と兄弟は実の親子なのだという。状況を設定した上で、その中に子どもを入れ、自然な振る舞いをカメラに収めたのだろうか。母親に駄々をこね、兄弟喧嘩をし、父の不在を泣き叫ぶ。そこには演技というものはなく、目の前の現実をカメラは捉える。“実/虚”という境界上での演技者(母)ケインも素晴らしい。大人だけでも子どもだけでもこのリアリティは生まれない。

(藤元明緒『僕の帰る場所』)


アン・ウェイウェイ『ヒューマン・フロー 大地漂流』(2017)

移民排斥に向かう欧州に対し、ガーディアンは〈ヨーロッパは死んだ〉と評した。 私が住んでいる日本はどうなのかといえば、〈生まれてさえいない〉。
アイ・ウェイウェイはこうに語る。「自分が中国にいないのに、中国を語り続けることにリアリティーはありません。自分の身を危険にさらして中国を語ることは説得力はありますが、いまの自分はすでに安全地帯にいるからです」(美術手帖2016.6)。『ヒューマン・フロー 大地漂流』は非・安全地帯に身を置いたということなのだが、映像の中での彼自身の存在証明は、はたして必要なのか。


『ダムタイプ 新作ワークインプログレス2019』
2020年3月、京都で《KYOTO STEAM》が始動する。STEAM《Science、Technology、Engineering、Arts、Mathematics》。ダムタイプなくして京都の新アートシーンはない。ダムタイプを伝説として捉えてはいけない。今回の公演はそのプロローグである。
昨年末から動きだした新・ダムタイプの公開リハーサル。身体×言葉×(コミュニケーション・音楽・テクノロジー・工学・数学)言語によるパフォーマンス。身体、言葉、言語は交感(交歓)しながらもそれらの間へ回収(される/されない)スリリングな時間と遭遇することができた。
来年春が待ち遠しいとともに、新・ダムタイプとの遭遇に感謝。


アナ・アセンシオ『モースト・ビューティフル・アイランド』(2017)

移民と晒される身体。映画では性としてなのだが、日本でも移民は晒される身体としてある。放射能に晒される身体、タコ部屋の存在として晒される身体、低賃金からの逃亡者として晒される身体、知らぬふりをする日本という身体。難民の関連でいえば、リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013) が上映される。数年前に見た作品だが、生々しいもの、人を構成しているものは何なのか、失われた映像とは、映画は再現可能なのか。映画を見ることで思考は外部へと向かうのか。オサーマ・モハンメド『シリアモナムール』2014)との関連で語りたくなる。


ジョナス・メカス『Sleepless Nights Stories』(2011)

私のちっぽけなメカス体験では断定はできないけれど、これまで見たメカスとの違いに驚嘆。メカスといえば用語〈コマ〉の使用が定型になると思うのだが、〈コマ〉という光子との共通性では捉えきれない豊饒な物語があるように思えた。その意味では、メカスが『千夜一夜物語』から着想を得たと述べたように、複数の語り部によるメカス版『千夜一夜物語』である。
リスボンのシーンでのセザリオ・エヴォラの歌声、そして「幼年期の物語」での吉増剛造の朗読を思わせるメカスの詩作過程、これはまさしくひとつのNight Storyだ。
本作がジョナス・メカスの他の作品と異なるのは、編集の即時性からくるのではないだろうか。そのヒントが「メカスの映画日記」にあったような気がするが、確かめなくては。
本作はミゲル・ゴメス『アランビアン・ナイト』(2015)を思い出させる。ゴメスが世界を語るうえでシェへラザード姫を必要としたのは、経済破綻に陥ったポルトガルの、とりわけ貧しい市井の人々の断片化された説話群が、いつしか〈連帯〉となるという意志の表明のためであったと思う。メカスにとっても、来歴の異なる語り部による説話は、単一ではなく多数者による〈連帯〉という意味ではないのかと。
オリジナルの変革と断片の排除。ビデオによるワンシーンワンカットは排除を生み出す。

「記憶を復元する」は今号(Vol.2)でおしまい。お読みいただき、ありがとうございました。

《映画日記18》三宅唱作品集『無言日記2014』/『八月八日』/『1999』/ほか
に続く。

(映画遊歩者:衣川正和 🌱kinugawa)

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