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《映画日記22》 フラハティ / 台北映画日記 / ほか

(見出し画像:ロバート・フラハティ『モアナ 南海の歓喜』)

本文は
《映画日記21》アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール/スコリモフスキ/ソクーロフ/ほか
の続編です。

この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。


ロバート・フラハティ『モアナ 南海の歓喜』(サウンド版)(1926)

南太平洋サモア諸島で暮らすルペンガ一家。彼らの生活圏域は陸と海。陸では常食とするタロイモ採りに出かけ、イノシシの通る道に罠を仕掛ける。珊瑚礁の美しい海では丸木舟に乗って漁に出かける。一家にはモアナという息子がいた。モアナと彼の婚約者ファアンガゼ。モアナは成人式の刺青をしてもらい、ファアンガゼは結婚式のために踊る。そして、村人の歌声とともに挙式の準備が整い、結婚式がはじまる。

製作は1926年だが、フラハティの娘モニカ・フラハティと、ダイレクトシネマの先駆者の一人であるリチャード・リーコックによるサウンド版は1980年製作。二人がサモアの島に調査と音響収録に赴き完成させた作品である。2014年に、ブルース・ボズナーにより、本作の2Kデジタルリストア版が製作されている。ブルース・ボズナーは1894〜1941年頃のあまり観られていない初期のアメリカ映画の復元に携わったことで知られている。彼は、全米映画批評家協会から、優れた映画を復元し保存することに貢献した団体、または個人に送られる、映画遺産賞を受賞している。

サモア諸島は撮影当時、前人未到の地(欧米の視線での前人未到)ではなかった。19世紀末には、東サモアはアメリカ領、西サモアはドイツ領になっており、多くの欧米駐在者が住んでいたという。作品で見られる刺青の儀式はすでになく、島の風習も廃れつつあった。本作における刺青や風習は、フラハティが島の住民に再現してもらい、映像化したのである。その意味では、本作はフィクションであるとか、「やらせ」という批判もある。

だが、フィクション、「やらせ」という批判用語で世界の片隅に追いやることは、映画史を痩せさせることになりもなる。それは、映画史において、本作をどのように附置するのかという問題でもある。

作品を見た印象は、モアナたちの環境や彼らのふるまいには、近代という魔物すら迂回するほどのおおらかさがある。そんな南太平洋サモア諸島の日常を丁寧に掬いとるフラハティの眼差しに、私は映像製作の倫理を感じるのだ。それは、フィクショナルな原素をサモアの下地に染み込ませることで作品に強度を増し、土地の人が演者となることで、古層としてのサモア諸島の記憶を映像として具現化しようする、彼の眼差しを映画の倫理と思うからである。これをフラハティのサモア諸島への「愛」と言ってもよく、この倫理こそがドキュメンタリーであり、それゆえ、ジョン・グリアスンが「ドキュメンタリー」と名づけた最初の映画であると納得できるのである。フィラハティのこのような倫理はルソー主義と批判されもするが、たとえ「未開社会によって提起される政治的諸問題を無視しているといった非難や、また未開社会の搾取における白人の役割について提起される政治的諸問題を無視しているといった非難」(ジル・ドゥルーズ『シネマ1 運動イメージ』)あるとしても、「そういった非難によってフラハティが傷つくことはほとんどない」(『シネマ1 運動イメージ』)のである。また、本作に、ダイレクトシネマ、ジャン・ルーシュのシネマ・ヴェリテ、ロッセリーニの『ストロンボリ』のマケットを見出せるようにも思うのだが、どうだろうか。
本作はエスノ・フィクション(民俗学映画)の始まりであることも記しおきたい。
いつの日か、ジャン・ルーシュのシネマ・ヴェリテ特集を見たいと思う。


ロバート・フラハティ『極北のナヌーク』(デジタルリマスター版2013年)Nanook of the North(1922)

『モアナ 南海の歓喜』の4年前に製作された作品であり、本作は地理的にその対極にある作品である。『極北のナヌーク』から『モアナ 南海の歓喜』への撮影経緯を、金子遊が次のように述べている。

フラハティは長いあいだ北極圏の凍りついた土地を探検(『極北のナヌーク』の撮影)していたので、どこか正反対の極地へ行きたいと考えていた。今度も現地に住みこむ撮影スタイルを踏襲するつもりだったが、そのために今度は妻と成長してきた子どもたちを同行する必要があった。フラハティに会ったオブライエンは真のポリネシアらしさが残っているのはサモア諸島だけだといい、「サバイイ島のサフネ村へいけば、まだ地球上にのこる美しい伝統文化を見ることができるでしょう」と勧めた。それでフラハティと家族の行き先は決まったのである。

(「サモア諸島のサモア」《neoneo4号》)

本作の舞台はカナダ北部に位置するアンガヴァ半島。1年の大半が白銀の雪と氷に閉じ込められる極寒の地である。ナヌークを族長とするイヌイット族の一家が大自然のなかで、たくましく生きてゆこうとするさまを映し出している。
参考のために『シネマ1 運動イメージ』から
「SAS’(S:シチュエーションSituation、A:行動Action)の、いやむしろSASの壮大な構造が見える。というのも、ナヌークの様々な行動の偉大さは、シチュエーションを変更することよりも、むしろびくともしない環境のなかで生存することにあるからだ。」(ジル・ドゥルーズ『シネマ1 運動イメージ』)


ナタウット・プーンピリヤ『バッド・ジーニアス』タイ(2017)
音声の硬質性とスピード感に期待したのだが、なんだか拍子抜け。俳優もモデル出身でヒロインであるリンを演じたチュティモン・ジョンジャルーンスックジン以外に魅力はなく、物語のいまひとつの主役でもある道具立てに音声がついていかない。SNS上であまりにも高評価なのだが、わたしには物足りない、単なるアイドル映画に堕しているように思えた。

以下は台北に数日滞在したときの、ミニシアター・光点華山電影館で見た作品。


沈可尚 シェン・カーション『幸福定格』(2018)

1.5メートルの距離を隔て夫婦が語り合う、〈わたし〉〈あなた〉〈家族〉〈性〉。お互いに見えているようで見えていない、語ることで互いに気づかなかったことが現れ、そして疑問も深まる。カメラは稀に左右に触れたり顔のアップとなることもあるが、原則は揺るぎなき固定ショットで二人を程よい距離から観察している。カメラは彼らの会話に耳を傾けているようでいて、実はカメラの揺るぎなさで夫婦の表情を見つめることを可能にしている。会話で変化する夫婦の表情が面白い。狼狽、激昂、はぐらかし、頷き、笑い…。これは可視化された表象言語であり、映画だからこそ可能な表現態である。


侯孝賢『風櫃來的人 數位修復』(1983)
邦題『風櫃(フンクイ)の少年』のデジタル修復版。
決して多い観客数ではないが、観客の大半が20歳代前半の世代。『風櫃(フンクイ)の少年』だからなのかもしれないけれど、観客の様子は日本の侯孝賢作品の受容とずいぶんと異なる。日本ならば、侯孝賢作品を見るのは私のようなシネオタが大半。映画を見て分析し、作品を難しくする。これが日本の侯孝賢受容。それはそれで面白いけれど、台湾の若い観客は、娯楽映画を見ているかのように、喧嘩や鶏を締めるシーンに、「ウァ」とか、「すごい!」、といったダイレクトな反応を示し、いわばフレーム外の反応音声が面白い。私もこんな映画鑑賞をしたいけれど、どうしてもそうはならない自分が悲しくもある。
『風櫃(フンクイ)の少年』は30年以上前の台湾の若者たちを描いた作品。台湾の現代の若者からみれば、日本でいえば昭和の作品のようなノスタルジック感が溢れており、社会への視線だけではなく、生活感にも現代と距離を感じるのだろうか。それでも、この日の観客の反応こそが、『風櫃(フンクイ)の少年』の正しい見方なのかもしれないと、作品外でも感動した私なのだ。


アルフォンソ・キュアロン『ROMAローマ』(2018)予告編
アルフォンソ・キュアロン監督のメキシコ映画『ROMAローマ』の予告編を見たのだが、とても面白そうだ。台湾では劇場上映がされるようだ。配給がNetflixとなっていたが、日本語サイトでの予告編は見当たらない。現時点では、日本では配信限定なのかもしれない。もしそうだとしたら、契約者のみの閉ざされた領域内での作品鑑賞となる。文化は商業的限定ではなく、オープンでなければ…と私は思う。


刀削麺

映画を見た後、永康街の「永康刀削麺」で夕食。台北に来たら必ず行く。私お気に入りの店。


河瀬直美『聖草之愛』(2018)
邦題は『VISION』。
ポスターには、visionを「幻願」と訳されていた。幻+願。この言葉には視と時の深遠がある。ヴィジョンよりも深く美しい訳だと思った。主演のジュリエット・ビノッシュの顔には年齢を感じはするものの、横顔を捉えたショットには、『汚れた血』(1986)のアンナの美しさがあった。


当代芸術館(現代美術館)

映画を見た後、映画館から徒歩圏内にある現代美術館《当代芸術館》へ。
原住民(注*)との関連美術展。台湾の現代アートを見ていつも感じることがある。日本の現代アートは欧米の批評言語に程よく収まるきらいがあるが、台湾の現代アートはそう容易くは欧米の批評言語を受け入れようとしない。何しろ原素的ポテンシャルがもの凄くて、彼らの作品を見るとは、新たな言語の創出と同義であるとさえ言える。映画にも同じことが言える。
(注*)台湾では先住民ではなく、原住民と憲法に記されている。それは、語「先」には消滅したという意味があるからだ)


黃榮昇 ホワン・ロン『小美』 (2018)
失踪した若い女・小美シャオメイ。小美を知る9人の独白。大家、彼氏、腹違いの兄、母、元雇主の女、会社の事務員、元彼、霊媒師、最後に会った写真家。
9人の語りも興味深いのだが、それぞれが語るべき場所での環境音がそれ自体としてドラマになる。しかも、その音声がシーン内で鳴り切り、そのことが小美と9人の存在を際立たせる。日本語字幕で再見したい。台湾映画ポテンシャル最強!

《映画日記23》に続く

(amateur🌱衣川正和)

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