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【映画評】 宮崎大祐『遊歩者』FLANUER 存在・実在性ということ

宮崎大祐監督作品の主題の一つに“出会う/出会わない”がある。そこにあるのは偶然性や憑在性なのだが、それを支えるのは存在、実在性の問題である。わたしは宮崎大祐監督の全ての作品を見たわけではないのだが、見た限りにおいて、存在・実在性をアプリオリに前提としているように思えた。その存在・実在性を簡潔、明快に描いたのが、5分の短編『遊歩者』(2019)である。
『PLASTIC』(2023)が上映される前に、宮崎大祐作品における存在・実在性を『遊歩者』で確認しておこうと思う。

ローラースケート遊技場がありフレームにあり、続いて街の俯瞰があった。最初の2ショットで、この作品のカラーが明確に示されていた。それはエクタクロームのようなのブルーと赤に、水を含ませたカラーリングであった。鮮やかでありながらアジア的な湿度を纏わせた色調。それだけでもこの作品は充溢していた。その色調はボードレールの『遊歩者flâneur』であるボーイ・ミーツ・ガールの支持体でもあった。

フィリピンの地方都市なのだろうか、カメラに映し出されるひとりの女とひとりの男。二人とも土地の人ではなく、この都市に迷い込んできたかのような様子である。だが、男と女の、この町への不意の出現であるかのような個別のショットだから、二人は同一時間を占有していたとしても、別の場所にいることは確かだ。

露天でアクセサリーを手にする女。考えごとをする女。カメラは女をクローズアップで捉える。だが、女はなにも語らない。
男はバストショット。カメラは公園のベンチに座る男を捉える。そこに別の男が隣に腰掛ける。男は腰掛けた隣の男に語る。「恋人を探しにマニラからきた」と。

男のショットと女のショット。それらは分離したショットだから、男が探している恋人がこの女なのかは判然としない。だが、それだけでいい。出会いとは、身体がそこに在る(exsite)ことの呈示であり、それ以外、必要とするものはなにもない。〈そこ〉という空間的直接性と、〈在る〉という身体の時間的直接性である。

ラスト、〈そこ〉と〈在る〉ことの同時的呈示は驚くべき簡潔なショットで示される。町を見下ろす夕暮れの道路脇に男が佇んでいる。ほんの少し右方向へカメラがずれると、男の視線の先に女。ここでようやく、男と女が同一フレームに呈示される。同一フレーム内の視線の交差。ボーイ・ミーツ・ガールとは、同一フレームでの男と女の身体の存在と視線の交差なのだ。そしてそれを可能とするのは「振り返る」という男の仕草。ひとつ間違えると凡庸さに失してしまう仕草なのだが、わずか5分間の簡潔なショットの連なりなのに、こんなにも豊かな物語が描ける監督の眼に信をおきたくなる。身体の存在の呈示は同時上映の長編『TOURISM』では移動として変異する。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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