【映画評】 橋口亮輔『恋人たち』 救済ということ
(見出し画像:橋口亮輔『恋人たち』)
橋口亮輔『恋人たち』(2015)
タイトルから甘美な恋愛映画を想像してしまうのだが、橋口亮輔の『恋人たち』はそうではない。しかし、『恋人たち』というタイトルが裏切るわけではない。タイトルを嬉しく裏切ってくれた映画である、とひとまずここでは述べておこう。
これは紛れもなく恋人たちの映画であり、しかも甘美さを伴わない、恋人たちの残酷と隣り合わせの映画である。この場合の恋人たちとは、〈対〉という複数とともに、〈単独の〉という単数でもある。恋人を想うのは対であるとは限らない。単独者が不在を想うことも恋人であるからである。想うとは恋ということでもある。だが、誰かを想い、その不在に語りかけること、それは、目の前にある部屋の壁にボールを投げ、壁にバウンドしたボールを自ら受ける無償の行為のように残酷である。この作品の場合、不在とは、通り魔に殺された恋人であったり、学生時代から密かに想いを寄せている同性の男友だちであったり、自分に関心をもたないくなった夫であったりと…。
殺された恋人の仏壇に思い出を語りかける橋梁点検師のアツシ(篠原篤)、電話の向こうの男友だちに些細なことで招いた誤解を解こうと語りかける弁護士の四ノ宮(池田良)、誰に語り掛けて良いのかもわからなく取引先の男と親しくなってしまったパート従業員の瞳子(成嶋瞳子)。ここにあるのは孤独な語りかけであり、孤独は深くなるばかりだ。語りを外に向けたとしても、孤独がほどけるわけではない。アツシは担当弁護士や医者に、四ノ宮は同性の恋人や弁護依頼者に、瞳子はパート仲間や親しくなった男に。語りは相手に届いたかのようでいて独白にとどまる。だが、語りかけられる者たちにしても、他者からの彼らへの語りは闇へと向かうベクトルにすぎず、他者の眼はおろか、語る彼ら/彼女らの眼からですら不可視となる。相互不可視であるがゆえに、彼ら/彼女らは孤独から逃れることはできない。映画を見る私は、その孤独がほどけ救済されるのかを凝視するしかない。
彼らはどのように救済されるのか。
アツシは夜の繁華街で、立ち小便をする男と彼に寄り添い小便を見つめる女を発見する。たわいのない行為と恋人たちの会話。その何気なさに生きることを発見するアツシ。
男友だちの誤解が解けない四ノ宮。弁護依頼者との面接中、眼の前の1本の万年筆に眼を向ける。それは学生時代、男友だちからプレゼントとしてもらったものである。その万年筆に男友だちの自分への気持ちを想い、誤解を受けていることからほどけてゆく自分に気づく。
瞳子は家を出て、親しくなった取引先の男の元に向かうのだが、男がヤク中であり、自分には何ら好意を寄せていないことを知り家に戻る。夕食後、夫は瞳子の体に何気なく触れる。それはセックスのいつもの合図であり、瞳子はないから買ってくると言うのだが、夫は「なくてもいいよ」と言う。「ないと子供ができちゃうじゃない」と瞳子。すると「できてもいいよ、だって夫婦なんだから」と夫は返答する。瞳子はこのときはじめて、夫婦という関係で二人は結ばれているのだと感じる。これが彼ら/彼女らの救済である。
救済は日常に遍くあり、わたしたちはそのことに気づかないでいる。そのことは確かであり、とりたてて特別なことではなく、救済という事態は不意に訪れる。と思いつつも、このような安易すぎる救済があっていいものかという思いもする。3.11後の日本映画は救済を求め彷徨っている。だが、ここ数年の日本映画に見られる安易すぎる救済は決定的に何かが欠如している。この欠如の表現こそ、映画による救済なのだと思うのだが…。
いや、そうではないかもしれない。救済は特別なものではないし、〈安易すぎる救済〉と思うのは私の傲慢でしかなく、不意に舞い降りてくる救済こそ、真の救済なのかもしれない。
(補足:救済以前の救済)
水面を滑るボート、橋梁との音の対話。これが唯一のアツシの分かり合える対話。
足を骨折しギブスの四ノ宮。学生時代から密かに想いを寄せていた男友だちギブスに早く治るようにペンで書く。これは恋文。
瞳子が通勤に使う自転車。その自転車の後部席に無理矢理乗る取引先の男。これが瞳子の恋の始まり。
これらは絶望と希望そのものである。
(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)