【映画評】 深田晃司『ほとりの朔子』 湿度、エロスの映画
これからどのようなことが起きようと私はすべてを許すことにしよう。これまで、このような寛容を私は持ち得ただろうか。
暗闇の中で列車の走行音の持続があり、それからしばらく目の前には田舎の長閑な車窓風景が流れる。
少女が夏の光を浴び、列車の揺れにうたた寝をしている。
列車が停車し、「着いたよ」、と女の柔らかなオフの声が少女を目覚めさせる。
映画がここで終わってくれても私は満足だった。これから何かが始まるのだが、その始まりが何であろうと、そして110分後には終わるのだという予めの了解があるにしても、「ここで終わってくれても」という、始まりと終わりの〝ほとり〟にいることで、私は満足だった。バカンスには始まりと終わりがあり、終わりのないバカンスはありえない。終わりがなければそれは「バカンス」とは言わず、「日常」でしかない。だが、深田晃司『ほとりの朔子』(2013)は、はたして「バカンス」の映画なのか。
家にいると母親がうるさくて勉強に集中できないからと、叔母の海希江(鶴田真由)と共に夏の終わりの2週間を海辺の避暑地で過ごすことになった18歳の朔子(二階堂ふみ)。私が、「これからどのようなことが起きようと」、と思ったのは、朔子が目覚める冒頭のシーンである。
「起きてしまった」とは、朔子をポリーヌに、海希江をポリーヌの叔母・マリオンに置き換えれば、エリック・ロメール『海辺のポリーヌ』(1983)との相似形の出現として「起きてしまった」のだ。そして朔子と同世代の孝史(太賀)をシルヴァンに、海希江の恋人である歴史学者・西田(大竹直)を民族学者アンリに、海希江の幼なじみ・兎吉(古館寛治)をマリオンの元恋人・ピエールへと、作品の構造そのものが相似形なのである。それに朔子が海を見つめ涙を流すシーンなどは『緑の光線』(1986)のマリー・リヴィエールだし、これはロメールの反復というよりも、相似形の呈示という驚きを交えた感動でもある。ポリーヌとマリオンが避暑地を去りパリに戻るというバカンスの終わりが、『ほとりの朔子』では朔子ひとり東京へ戻るというのが異なるものの、『ほとりの朔子』の欧文タイトルが『Au revoir l'été(さようなら、夏)』なのだから、やはりロメールを想起しないわけにはいかない。言うまでもないが、相似形であることが、作品の価値を揺るがすことはない。だが、ギョーム・ブラック『女っ気なし』(2013)と立て続けにバカンスものを見ると、「またか」という気になってしまうのだが…。
ここで、「バカンスの映画」「バカンスをもてなす人間の日常が描かれている」という、『女っ気なし』についての増田景子の論考(nobodymag)を解釈のレイヤーとして措定すれば、『ほとりの朔子』は、「日常はバカンスを浸食する」と読みとってもいいかもしれない。だが、「どのようなことが起きようと」という前提を超え、「またか」という起きてしまったことへの諦念を、「すべてを許す」へと変換させる寛容さは、冒頭の列車のシーンを目にしたからばかりではない。それは、『ほとりの朔子』が、「湿度=エロス」というアジア的大気の映画であると確信させるからである。
湿度はそのものとして自立しはしない。大気中に充溢する水分が身体に纏わりつくことではじめて湿度というのであり、水分が大気中に漂う限り、それは水分にすぎない。身体に纏わりつくことで肌は湿度との親和性を知覚し、匂い立つようなエロスを肌から発散させ、湿度はエロスと同一化する。朔子が水のほとりにひとり佇む姿を目にしたとき、反射光に過ぎないスクリーンの映像は湿度で満たされ、朔子の肌を感じるのである。町の有力者である市議会議員の少女売春。それがエロスとは無関係なのは、ホテルでのエロ親父と事務的に処理する少女との絡みあいだからではなく、空調の効いた、つまり、湿度を欠いた室内での絡みだからと言えるのではないか。そして、海希江の恋人・西田が女子大生・辰子(杉野希妃)を誘惑するのだが、二人の事におよぶシーンが挿入されていないのは、やはり空調の利いたラブホテルという湿度の欠如を回避させるという、巧妙な編集なのではないか。空調の利いたラブホテルでの情事はポルノではあっても、エロスとは無縁なのである。
エロスには湿度が必要なのであり、湿度があればエロスは自然と生まれる。朔子が水のほとりにひとり佇み水を掌に掬うシーンは、まぎれもなくエロスとしての象徴的なシーンとなっている。少女が掌に水を掬うことで、水は湿度となる。だから、「湿度とはエロスの譬えである」ことを描こうとしたのが、『ほとりの朔子』だと考えてもいいのではないだろうか。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
深田晃司『ほとりの朔子』予告編