《映画日記7》 濱口竜介、イエジー・スコリモフスキ作品、ほか
本エッセイは
《映画日記6》五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェラ作品、ほか
の続編です。
「映画を見にいく普通の男……この題にさしあたり深い意味合いはありません。僕は映画については素人にすぎないといった程度のことだと取ってくださっていい。じっさい、僕はおおかたの人々と同じように、気晴らしのために映画を見に行きます。しかし、何かの加減で、僕はフィルムの物語やらが指し示すものとはぜんぜん違うものをそこに看取ってしまうことがある。」
これはジャン・ルイ・シェフェール『映画を見にいく普通の男』(現代思潮新社)の書き出しである。ジャン・ルイ・シェフェール(1938〜)はポスト構造主義、ポスト記号論の美術理論家として注目されている。彼の「物語やらが指し示すものとはぜんぜん違うものをそこに看取ってしまう」映画体験の豊かさをわたしも持ちたいと思うのだが、彼の足元にも触れることのできないわたしの眼は、「おおかたの人々」と同じく凡庸でしかないようにも思うのだ。
このエッセイはわたしがつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
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濱口竜介『寝ても覚めても』(2018)
フランスの映画批評誌Cahiers du Cinéma No744(5月号)にCANNS2018レポートが掲載されており、その後半に、結城秀勇と坂本安美の共同執筆による濱口竜介『寝ても覚めても』の解説文(仏文)がある。ここにその解説文を紹介したい。だがその前に、濱口竜介作品のフランスでの受容について簡単に記しておきたい。
濱口竜介作品の連続上映がパリで開催されている。連日、会場は多くの人で席は埋まり、上映後のトークでは、濱口作品を理解しようと、参加者による積極的な論議がなされているようだ。とはいうものの、それはさほど大きくはない上映会場でのことであり、濱口監督はよほどのシネフィルでないかぎり未知の監督として、今後の広がりが期待される新進気鋭監督と言ってもいいだろう。フランスでの濱口作品の受容の始まりである。そのためか、結希・坂本両氏による作品の解説文はその状況を踏まえて書かれているようで、丁寧な入門解説となっている。
以下、その拙訳ですが……
前号《映画日記6》の五十嵐耕平、ダミアン・マニヴェラ『泳ぎすぎた夜』についてのわたしの拙訳同様、参考程度にとどめておいてください。わたしのフランス語は学生時代、数学の仏語文献を読むために学んだもので、英語でいえば中3レベルのフランス語にすぎません。仏語文献の数学の内容自体は難解極まりないのですが、語学的には、数学の専門用語を除けば中3レベルだと思います。
邦題『寝ても覚めても』は、仏題では『AsakoⅠ&Ⅱ』。主人公の名・朝子がタイトルになっています。
濱口竜介『はじまり』『THE DEPTHS』の論考が読めます。
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平栁敦子『オー・ルーシー』(2017)
〝43歳、独り身〟で楽しみもなく憂鬱な毎日を送る節子と姪の美花との〝女の対決〟、そして人生に不器用なあまり暴走する節子を描いた平栁敦子『オー・ルーシー』。
本作は「顔しか撮らなかった」。この断言を正しいとは言いきれない。それでも、「顔しか撮らなかった」、と本作へのわたしの眼差しは顔へと向かう。だが、「顔しか撮らなかった」とは、そのことにより「身体の不在」をもたらしているということではない。それどころか、身体はいたるところにある。映画冒頭の地下鉄ホームでの鉄路に投身する身体。美花のメイドコスチュームで登場する唐突な身体。英会話教室での親密なハグとウィッグをつけた身体。節子とジョンとの車中セックスの身体など。身体は本作を構成する重要なモチーフともなっている。節子は、ジョンと美花の愛の証が左腕の刺青「愛」であると知ると、自らの腕に刺青「愛」をいれることで愛と身体との親和性、あるいは同一化を体現しようとする。そこあるのは、身体を露わにすることで、自分の中の感情が覚醒されることだ。身体なくして本作はない。それでも、「顔しか撮らなかった」、と断言しよう。顔のショットがあることで、それほど美しいとは思えない身体は動物的で欲情的に立ち現われるのだ。顔のない身体は物質にすぎない。顔のショットがあるからこそ、身体が物質であることから解放される。顔に限らず、身体の部分のショットはありがちで珍しくもないのだが、顔を撮ることが身体の表象としてのショットであることを示したのが、平栁敦子監督なのである。だからこそ、本作は「顔の映画である」、と声高らかに宣言してもいい。
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イエジー・スコリモフスキ『イレブン・ミニッツ』(2015)
寒梅館ハーディーホール爆音映画祭で上映。
午後5時に始まり5 時11 分に終わる物語。大都会に暮らす見ず知らずの人々に起こる11分間のドラマをモザイク状に構成。イエジー・スコリモフスキ監督特有の限定された空間と特殊な時間設定が、映画を見るわたしの精神を覚醒させる予測不可能な81分の群衆劇である。
爆音映画祭のホームページに「繰り返されるストゥージズ「アイ・ウォナ・ビー・ユー」のベース音とともに、その変化を感じていただけたら。」とあるが、「I Wanna Be Your Dog」の間違いではないだろうか。こんな些末なことを気にしても意味ないのだが……備忘録的に気になったので。
爆音映画祭には何度か足を運んでいるのが、爆音ならではと感心したのは、神戸アートセンターで上映された石井岳龍『ソレダケ/that’s it』(2015)の一作品のみである。多くの上映は爆音でなくても、もしくは、爆音でない方が、という印象で、正直なところ、今回も期待していなかった。ところが、寒梅館ハーディーホール爆音映画祭、冒頭の硬質なベースの一音が会場に響いた瞬間、これからとんでもなく恐ろしくもいけないことが起きるのではと、わたしの皮膚は光と音の圧力にピクリと反応した。そして重層化された11分間という時間感覚もわたしの予想を嬉しいほどに裏切ってくれた。いやいや、とてつもない上映が始まった、という期待でわたしの精神は体の内部から気を発し、何かが溢れた。
本作は11分間の一つの出来事を多重視点で捉えた単純なコラージュ、というありがちな手法ではない。監視カメラ、Web カメラ、カスマホのカメラ機能による映像や、CG、さまざまなアングルや時間を引き延ばした映像。そこにある映像は都市をモザイク状に覗く主体が不在であるかのごとくの眼差しである。これにより、世界とは、同時多発的な時間のモザイクによる構造のことであるとわたしは知ることになる。さらにこの作品の恐ろしさは、バラである時間の断片が、落下と衝突という、垂直運動と水平運動の遭遇による世界の不運な集積へと収斂することにある。冒頭の硬質なベースの一音とは、ラストシーンの予兆として映画を見る者にあらかじめ明示された音としてあったのだ、と最後に気づく。
世界は単一の眼差しの主体不在・不明の複数者による集積体である。その多層性こそが世界の魅力と謎なのだ。世界同時多発を「特異性」として世界に還元するのではなく、それこそが世界の「普遍性」としてあると信をおくべきなのだ。それがたとえ監視カメラが映し出すディスプレー上の虫のクソのような黒点の集積であったとしてもだ。78歳の巨匠が映画表現の新たな地平を切り拓く『イレブン・ミニッツ』。11分後のわたしは唯一ではない。いや、現在のわたしも唯一ではない。主体不在・不明の眼差しの集積体としてのわたし=イメージがあるに過ぎない。そうであってもいいと思える映画体験だった。
石井岳龍『ソレダケ/that’s it』の論考を下記サイトで読めます。
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旅の途上、金沢にて。
夜、金沢の映画館シネモンドで上映されている高橋洋『霊的ボリシェヴィキ』(2018)を見ようかと思ったが、『世界』(5月号)の新連載・四方田犬彦「映像世界の冒険者たち」をホテルで読む。初回は「『資本論』を映画にする…アレクサンドル・クルーゲ」。
クルーゲの著作『イデオロギー的古代からの報告 マルクス・エイゼンシュテイン・資本論』(2008)についての論考だが、ジョイスとの関連のあまり厚みのない作品解説で少しがっかり。今後の展開に期待したい。
クルーゲ(1932〜)といえば、1977年9月、西ドイツで起こったドイツ赤軍によるドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤー誘拐事件、そして逮捕されたドイツ赤軍メンバーたちの刑務所内での不審な死を受けて描いた共同監督作品『秋のドイツ』(1978)があまりにも有名である。ちなみに、1977年のドイツ赤軍のテロ事件をメディアでは「ドイツの秋」と呼ぶが、これは『秋のドイツ』を元にした呼称である。
四方田犬彦の解説によれば、ドイツではクルーゲDVDボックスが発売されているというから驚きだ。ほしいけれど日本では入手できない。文化の厚みの違いなのか。
アレキサンドル・クルーゲ(アレキサンダー・クルーゲ)については《映画日記1》に書きなぐっている。
アレクサンダー・クルーゲ『愛国女性』(1979)の論考が下記サイトで読めます。
《映画日記8》キーレン・パン、 枝優花作品、ほか
に続く
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)