《映画日記20》 染谷将太 / アドルノ / ワン・ビン / 三宅唱 / ほか
(見出し画像:ワン・ビン『鉄西区』)
本文は
《映画日記19》パリの映画日記
の続編です。
この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく、「outdated遅評」であることをご了承ください。
*
染谷将太『シミラー バット ディファレント』短編(2013)
同じ時間と空間を共有する男と女の心のすれ違いという、どこにでもあるような一日を描いている。だが、ここには、物語が発生するかもしれない予兆ともいえる瞬間を見ることの快楽がある。
1度目は車中で。女はタバコを吸おうとロングピースを口にくわえる。だが、男はそれをとりあげ自分で吸う。女がふたたび口にくわえると、男はタバコをとりあげ車の窓から外に捨てる。
2度目は台所で。男がタバコを吸おうとすると女はベランダで吸ってよと叱責する。男は無視するかのように台所の換気扇を回す。
3度目は時間をめぐって。女は旧友と出会う予定なのだが、時刻が気になるのか時計を見つめる。と同時刻、男も旧友との会話に気乗りしないのか、スマホの時刻を見つめる。時刻とは現在の確認であるとともに、近未来の時間、つまり物語へと向かう予兆でもある。何もないようでいて確かに刻まれる存在。その確実性に満たされた25分間だった。
俳優・染谷将太が、監督・脚本(共同脚本:瀬戸なつき)を手掛けた全編16ミリフィルム(私が見たのはDCP上映だった)による自主制作ショートムービー。監督補が菊池健雄というのも興味深い。彼が『ディアーディアー』を撮るのは2年後の2015年だ。
ヒロインの平野鈴は本作の前年、濱口竜介『親密さ』(2012)で主演をつとめている。
*
ウィルソン・イップ『PSL狼たちの処刑台』(2017)
原題は『殺破狼、貪狼』。殺破狼とは中国の占星術の用語。吉凶問わず人生に重大な影響を与えるとされる〝凶星〟という3つの星(七殺星・破軍星・貪狼星)を指す。
PSLは、殺破狼の中国語読みSha po lang(シャー・ポー・ラン)の3つの頭文字。
ストーリーを述べる前に、本作はカンフー映画であると宣言しておきたい。
カンフーの達人イップ・マンは、ウォン・カーウァイ『グランドマスター』(2013)で、カンフーの真髄は「横か縦かのどちらか」と述べた。つまり、「敗者として倒れるか、勝者して立つかのどちらかだ」と。“横/縦”以外にカンフーの世界はない。この潔さがカッコいい。
友人に会うため、訪れたタイのパタヤで何者かに誘拐された香港の15歳の少女ウィンチー。連絡を受けた香港警察の父リーはパタヤに行き、自らの手で犯人から娘を奪還しようと決意する。パタヤ警察のチュイとその同僚タクもリーに同行し捜査に加わる。少女を誘拐した目的は何か。調べるうち、誘拐は単独犯ではなく、国家が裏で糸を引く臓器密売組織であることが判明する。しかも警察内部に組織と通じる者がいることも。リー、チュイ、タクはたった3人で組織にのり込む。
ストーリーも興味深いのだが、私にとり本作は“横/縦”の魅力に尽きる。それは、少女の父リーと同行したタイの警察官タクの“横/縦”の選択を見るからだ。彼らは〝横〟になることを選択するのだ。それは少女へのサクリファイスとしての選択である。その選択の潔さといったらカッコイイとしか言いようがない。だけれど、私には“横/縦”という二律背反の規範はないし持ちようもない。しかし、カンフーの世界には心打たれから不思議である。
*
ヨアキム・トリアー『テルマ』(2017)
湖水と大気の親和性。たとえば風という大気の流れによる水と大気の豊かな交感。しかし、冬になると水面という表層が氷という不動面となり、湖水と大気は分断されてしまう。氷上に生きる者は氷を打ち砕かない限り、湖水と交感できない。ところが、誰かが異端とかサタンと呟くと様相は変異する。そこに現れるのは、氷上の風景の残酷なほどの美しさだ。
その残酷さは風景にとどまらない。幼い娘に銃口を向ける父、車椅子の母。物語が進むにつれ明らかになる〝心因劇〟のサスペンス。
本作を見ると、異端は私たちと絶えず隣接していると思えてくる。突然訪れた女友だちの髪の毛にも、幼子にも、空を群遊する鳥たちにも、豊かに水を湛えるプールにも異端は触れようとしている。
*
アドルノ/アイスラー『映画のための作曲』
この一説を読みながら、アンゲラ・シャーネレク作品のことを思った。
シャーネレク作品において首から下のショットが頻出するのだが、三浦哲哉『ハッピーアワー論』における「心理表象主義」の回避と通底して興味深い。これはブレヒトの叙事演劇の手法についてのベンヤミンの論考と通底するもので音楽との直接的なつながりはないのだが、映画音楽についてのアドルノ/アイスラー『映画のための作曲』の論考と通底する七里圭の〝音楽⇄映画〟とも繋がるのではないか。
シャーネレク『はかな(儚)き道』冒頭のギリシャのシーンにおけるEU統合に関する横断幕のショット。これはブレヒトの字幕の起源でもある政治的デモンストレーションにおける横断幕でありサイレント映画における字幕でもあるのだろうか。
アドルノの議論に引きつけるなら、濱口竜介『ハッピーアワー』第2部ラストを思い浮かべてもいいだろう。妊った純がフェリーで旅立つのだが、フェリーの機械音が食卓のテーブルに伏せる友人・桜子の顔のアップに持続し、桜子の眼からわずかに涙が流れ落ちると突然、眼が開き映像は突然ブラックウトする。そこで『ハッピーアワー』第2部は終わる。
アドルノによれば、眼はつねに緊張・集中の機関なのだが、耳という聴覚は分散的(コントロール不可能)でつねにまどろんでいるということになる。『ハッピーアワー』の音は分散的である聴覚を緊張させることで集中ではなく離散(接続)へと向けている。
*
ワン・ビン『鉄西区』(2003)
全編(第1部〜第3部)で545分(9時間)。
『鉄西区』第1部(224分)冒頭から1時間20分まで鑑賞。カメラは工場内の男たちを追う。追うとはいっても男たちの先を行き待ち構えることはない。つまり、撮影時において先読みをしない。そのことで物語の恣意的な発生を抑制する。
『鉄西区』第1部(工場)鑑賞終了。
第1部は空間構造体。それが時代を変数とすることで空間は生命体として蠢き変容するという驚き。
第2部、第3部を続けて見るのは限界だ。2倍速再生は禁じ手だから決して犯すまい。
『鉄西区』第2部(街)鑑賞終了。
第1部(工場)が男の(即物的な外形も含めた)裸形の身体だとすれば、第2部(街)は家の裸形の身体。両者とも他者からの破壊の力に抗いながらも納得とは違った諦念として現れる。私にそう感じさせるのは、きっとワン・ビンの視線の持続から生まれる非人称のショットによるからに違いない。それを、「未知なるもの」のショット、「暗闇」のショットと名づけてもいいだろうし、このようなショットを通過するのでなければ、男や家の身体は立ち現れないのだと思えた。
『鉄西区』第3部(鉄路)鑑賞終了。
これで『鉄西区』545分全編走破したことになる。
この観賞行為は心身維持逃走(作品的にも)でもあった。「300時間の素材をすべて見たのは一度きりだった。撮影している過程ですべての各素材は私の中で明確な位置付けをもっていた」。これは対象への透徹した眼差しと視線の非人称性のあらわれなのだ。監督と対象との距離という議論があるが、ワン・ビン作品には距離という考えは無効と言える。つまり、遠・近は存在すらせず、ワン・ビンのカメラアイは、ただ、〝亡霊〟のようにある。
*
ダニー・ボイル『トレインスポッティング』『T2トレインスポッティング』を不意に想う。
歳月は不可思議なもの。歳月とは在るという時間のことであり、「歳月人を待たず」とあるように、在るという時間は、私たちが在るということとはいくぶん位相をずらしている。そして、時間は一様に過ぎゆくものではないことも、経験的、もしくは体感として、私たち共有の認識としてあるだろう。時間が一様でないとするならば、歳月とは、密度の稠密と疎の対立に還元されるような気もするし、記憶という時間の残滓の、どろんと堆積したもののようにも思えた。
*
ラーフル・ジャイン『人間機械』(2016)
この映画には倫理を超えた「美しさ」がある。この「美」は繊維工場労働者の過酷さと少しも矛盾しない。表層としての美があるがゆえに、残酷なほどに社会性が立ち現れる美しさである。
*
三宅唱『きみの鳥はうたえる』(2018)
*本作は佐藤泰志の小説を原作としているのだが、これまでに佐藤泰志の小説が映画化されたのは、熊切和嘉『海炭市叙景』、呉美保『そこのみにて光輝く』、山下敦弘『オーバー・フェンス』の3作品である。『そこのみにて光輝く』は気づくと上映を終了していたので見ていない。鑑賞することのできた2作品では、『海炭市叙景』が素晴らしかった。『オーバー・フェンス』は映画としての構成力に難があり、山下敦弘のいつもの弱さが気になり印象が浅い。
4作品目となる『きみの鳥はうたえる』はどうなのか。
*佐知子はすれ違いざま腕を伸ばし「僕」の肘に触る。映画を見る私は佐知子の昂揚する耳を思った。それから佐知子の匂い立つような肌理。「僕」の肌もどこか艶かしかった。佐藤泰志作品には艶やかな肌の匂いが必要なのだ。三宅唱『きみの鳥はうたえる』にはそれがあった。これきしの眼の数で通り過ぎるのは惜しい。観客は数人。満席になってもおかしくない作品なのに。
*「僕はこの夏がいつまでも続くような気がした」とは裏腹にフレームは「僕」、静雄、佐知子を捉えるかと思えば怪しくも視線は揺れ動きこれは「気がした」との確信ではなくこの夏を曖昧にやり過ごす浮遊する眼差の持続なのかもしれないとの宣言であった。非・共和ショットとしてなるほどと思った。
*
白石和彌『止められるか、俺たちを』(2018)
本作のHPに「吉積めぐみ、21歳。1969年春、新宿のフーテン仲間のオバケに誘われて、"若松プロダクション(セントラルアパート)"の扉をたたいた。当時、若者を熱狂させる映画を作りだしていた"若松プロダクション"。 そこはピンク映画の旗手・若松孝二を中心とした新進気鋭の若者たちの巣窟であった。」とある。
私は映画界のバックステージを知らない。だから、「吉積めぐみ」なる女性が実在したのか、もしくはフィクショナルな人物に過ぎないのか、判断するすべはない。だが、web上で「吉積めぐみ」を検索すると、(書き込みがフェイクでないとして)確かに実在したようだ。
映画では若松孝二監督作品に魅入った吉積めぐみが若松プロダクションの事務所に飛び込む。そこには理論家の足立正生、大島渚、福間健二に加え、無頼派理論家の大和屋竺や荒井晴彦も姿を現している。さぞや刺激的だろうと思うのだが、そうだからこそ、吉積めぐみは「一体何を撮りたいのか」見出せず焦りを募らせる。そんな中、彼女はカメラマンの高間賢治の子を宿す。堕胎すべきか産むべきか、人生に何も方向性をみいだせないまま睡眠薬を多量に服用し死へと向かう。
ドキュメンタリーが不意にフィクショナルな世界へと転位することがある。その時、フィクショナルとしての物語がどのようであっても、あたかも何かと和解したかのように、ある種の救済、昇華を見いだすことになる。その意味で、ドキュメンタリー→フィクションという転位は、いくばくかの幸福感を抱かせたりもする。だが、その逆はどうだろう。フィクションとしての物語が、突然ドキュメンタリーに触れてしまったとしたら。それは物語の喪失と同時に、ある種の絶望感といった奈落へと私たち見る者を突き落とす。たとえば、壁に貼られたおかっぱ頭の女性の1枚のモノクロ写真がフレームに示され、映画を見る私たちは、いやおうなくその写真を眼にすることになる。その不意の現れに、その意味することを悟り、そのことでたじろぎ、ただ〈祈り〉と触れ合うことでしかその場を去るすべがないと認識する奈落を。
《映画日記21》アレクサンダー・クルーゲ
に続く。
(amateur衣川正和 🌱kinugawa)