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【映画評】 真利子哲也『ディストラクション・ベイビーズ』

(見出し画像:真利子哲也『ディストラクション・ベイビーズ』)

真利子哲也『ディストラクション・ベイビーズ』(2016)

本作についての4つのメモ

(メモ1)
暴力装置としての都市。都市の変化に時代の流れが侵入し気づくと予期せぬ姿が異和となって露わになる。そこには何かが介在しているのだけれど、それが何であるのかは分からないし、異和そのものが明確に姿を現すとはかぎらない。都市の相貌が総体として暴力装置と化す。もちろん、それが近代に入ってそうなったわけではない。それは村や町が都市と称される近代以前からあるのであり、日本各地に伝わる喧嘩祭りなどは暴力が祝祭と結びついたものといえる。村や町が祭りという祝祭に接続され、暴力発生装置となる。そもそも祝祭や暴力は人の本性の顕われであり、そのような意味では、暴力は神聖であり村や町と分かち難い。それは都市形成以前も形成以降も本性として人とともにある。そのような意味で、野獣のように生きる芦原泰良(柳楽優弥)はわたしでありあなたである。

(メモ2)
喧嘩と暴力は違うのか。喧嘩は個人的であり、暴力は社会的であるのだから、本来的には別の形態である。だが、喧嘩は、その当事者間の外部にいる他者へと向かった瞬間、目撃されたり、とばっちりを受けたりとの事象化されることで、社会の一部となり、その結果、暴力となる。

(メモ3)
映画冒頭の少年たちの「けんか神輿」についての会話と彼らの背後の壁面に貼られている「けんか神輿」のチラシ。そのことで喧嘩と祝祭が暗示されるのだけれど、終盤のけんか神輿のショットは果たして必要だったのか…。そして、村上虹郎の役としての使い方の凡庸さ。野獣の柳楽優弥、チョロ松の菅田将暉、そして新たな魅力を発揮した小松菜奈、また言うまでもないけれどでんでん(この俳優は監督に関係なく魅力的)。それらを見せてくれただけに、村上虹郎の使い方は残念だった。

(メモ4)
喧嘩と祝祭は古代から蜜月にあり祝祭は人の本性の寓意として喧嘩は人の本性の直接の顕われとしてある。喧嘩を祝祭として演じる泰良と祝祭として愉しむ裕也、それをSNSで配信する人々。それらは総体としてわたしでありあなたであり祝祭の中に紛れ込んでいる。

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

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