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《映画日記2》 アルベルト・セラ『騎士の名誉』、ほか

(見出し画像:アルベルト・セラ『騎士の名誉』)

本エッセイは
《映画日記1》エドワード・ヤン『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』、ほか
の続編です。

本エッセイは、わたしがつけている《映画日記》からの抜粋です。これはわたし自身の備忘録でもあるため、論理性欠如となることがあります。わたし自身、読み返すと、なんでこんなふうに考えたの?と疑問符がつく記述もあります。その点はご容赦を。
「日記」には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で転載しました。まとまった論考として発表予定の監督作品については割愛しました。


菊地健雄『ハローグッバイ』(2016)

人は歩くことを宿命として背負わされた存在としてある。おばあさんは歩く。そして葵とはづきも。二人の歩きは、彼女らがおばあさんと出会うことで始まる。はじめ、葵とはづきの歩く目的はそれぞれ違っていた。だが、ふとしたことであばあさんの歩きの意味を知り、二人の歩きの目的は一致した。それは、おばあさんの歩きの意味に同一化することだった。そして、おばあさん、葵、はづきの歩きの目的は、遠近法のように一点へと収斂することになる。認知症のおばあさんの歩きを「徘徊」と捉えると、歩きの意味の本質は消滅する。歩きの意味を消滅させてはいけない。「徘徊」という社会用語は、歩きの意味を消滅させようとするわたしたちの怠惰である。


ヴェルナー・シュレーター『舞台リハーサル』(1980)

先月後半から今月にかけつまらない映画ばかりで、映画を見ようとする気力が萎えていた。だが、今月最終日にしてようやく興味深い作品に巡り会えた。来月から師走にかけ映画再興とするぞ。
シュレーター『舞台リハーサル』はファスビンダーほどには演劇システムについて批判的ではなかった。どちらかと言えば建設的。しかも倒錯的な建築で、エロスとタナトスを共犯関係として3つのアムールを建設したように思えた。3つのアムールトは、大野一雄、ピナ・バウシュ、山海塾である。
シュレーター『舞台リハーサル』での大野一雄と山海塾。大野一雄は天に舞い上がろうとする瀕死の白鳥、山海塾は大地と交接する縄文人。シュレーターは彼らをアムールと評したけれど、彼にとり、大地からにょきっと生え出た情念の足としての土方巽はどのような存在なのだろうか。シュレーターは土方を知らないのだろうか。シュレーターと土方の遭遇があれば、シュレーターは新たな地平へと向かったのかもしれない。
大野一雄と山海塾。両者の舞・舞踏を見ると、別役実のメルヘンとファンタジーについての言説を思い出す。「ファンタジーは現実から飛翔する力であり、メルヘンは現実を浸食する力である」。大野一雄を舞い上がろうとする上昇の垂直運動だとすれば、山海塾は大地との交合である。交合を「現実を浸食する力」とは言い難いけれど、大地と離れがたく結びついている様は、ある種の結界を越えた神話的な浸食と言えなくもない。
また、大野一雄の舞は、大地から浮遊する論理(西欧)の身体でありながらも、能の舞いを思わせもする霊的身体でもある。歌姫マリア・カラスのジャンニスキッキの歌唱を添わせながらの大野一雄の舞は、まさしくそのことを体現しているようだった。

ヴェルナー・シュレーター『舞台リハーサル』


ロジャー・パルバース『STAR SAND星砂物語』(2017)

不戦とは他者を傷つけないこと、そして寛容であることのあらわれである。と同時に、国家と対峙することでもある。国家には他者という所属員がおり、それは戦闘員であるとは限らない。不戦を誓った者も所属員であり、

その者は国家と対峙することになる。そして国家を背後にした使命としての交戦。
本作は、沖縄の離島という閉ざされた世界の中の、自己と他者をめぐる物語である。そして、事後の時間と過ぎ去った時間とを繋げる物語でもある。不戦とは何か、使命としての交戦とは何か。
そう考えながら鑑賞していたのだが、定型化された登場人物とプロットになんだかうんざりする作品でもあった。物語途中、いや、序盤からといってもいいだろうか、監督の思いが透けて見え、終盤へと至る道筋のクリッシェがわたしを苛立たせた。
そんなだから、出演者の栄養状態の良さが気になる。負傷した日本兵である三浦貴大の頬肉の豊かさ、そして米軍脱走兵のブランドン・マクレランドのいくぶん腹が出た肉付きなんかはいくら米兵でもこれはないだろう。戦場で疲弊した兵士の役なのだから少しは減量しろよ、といった、つまらないことばかりに気が向いてしまう…つまり集中できない…作品であった。収穫だったのは、女優・織田梨沙の発見くらいだったろうか。
先月は不毛な映画鑑賞の月。今月の最初の作品がこの体たらくだなんて……数日後に見る予定の澤田サンダー『ひかりのたび』に期待……


井上春生『幻を見るひと』詩人・吉増剛造、京都への旅(2017)

わたしの吉増剛造理解は詩集『草書で書かれた、川』(1977)で途切れている。だから、この作品について述べる能を知らないし持ち合わせてもいない。だが、この作品を目にし、何も語らないではいられないとも思う。能無しにして、散漫につぶやいてみる。
冒頭の3・11(津波)の資料映像に続いて呈示される大徳寺の枯山水。枯山水を見つめる詩人の目には、津波も枯山水も等価なように思えた。つまり、枯山水を見つめる目は津波を引き受ける覚悟がいるのだということ。詩人は3・11直後に東北へ赴いたのだが、「わたしがいる場所ではない」と思い、すぐに東京に引き返したという。あの大惨事をそう容易く引き受けることなどできようか。圧倒的な目の前の光景に、詩人は言葉を紡ぎ出すことができなかった。そこにあるのは、言葉をもはぎとっていった「水」の衝撃であった。
詩人は盲人となって言葉で満たされた原稿用紙にインクをたらす。たらすことによりインクは音と化す。詩人は音に耳を澄ます。インクとは本来、文字を記す液体に過ぎないのだが、インクの音を聞くとはいかなることなのか。それは書くという行為を逸脱するものなのだが、白い原稿用紙にたれるインクの音は、まぎれもなくあの「水」の音でもある。冒頭の津波と枯山水はここで繋がる。詩人はインクの音をマイクで拾い会場に共鳴させる。インクと原稿用紙—それは書かれた言葉たちでもある—による時間の堆積は、映画を見るわたしたちに波動として伝わり、それは意味を纏わない言葉の生成現場の傍観者(あるいは詩人の共犯者)となる。しかも、詩人は盲人として、わたしたちは傍観者という目として。
詩人にとり、「いのちの始まりに羊水があり」、「終わりに唇をしめらす末期の水がある」。いのちの始まりと終わりの水。言葉を記すインクにより、いのちの始まりと終わりの水は、わたしたちの生を記す言葉につながる。そして音となって宇宙に共鳴する。
盲人となった詩人は川端康成の幻を見る。それは指。指で手のひらに文字を記す。それは宇宙への触手である。詩人は触手を介すことによりは東洋の精霊である水の神、龍を発見する。上昇する龍は「惑星」に立つ「水の木」となり、詩人に創作の道筋を示す。

井上春生『幻を見るひと』詩人・吉増剛造


澤田サンダー『ひかりのたび』(2017)

大塚英志がわずか数行で本作を語り尽くしている。
「誰かが一方的に喪失した世界のなかで、「他者」として生きるヒロインが、その逆説の中に、確かな希望を描き出す。あらゆる表現が「順接」としてしか語られない今、「逆説」としての映画をひさしぶりにみた。」
夜が明け、朝の始動を思わせる薄い光が室内を覆っている。ベッドには高校3年生であるヒロインの奈々。まだ目覚めぬ奈々の横顔のショットに、やわらかな電子音がかさなる。それは携帯の呼び出し音。早朝から出かけた父・登からの電話である。静かな電子音なのだが、音の侵入がどこか暴力的とも思える冒頭の朝のシーン。大塚英志の言う「他者」は、「自己」の下層としての「他者」でもあるのだが、この下層としての「他者」は、家の外部から「自己」へと侵入する静かな電子音として呈示される。ヒロインの横顔と電子音という何気ないファーストショット。これこそが、本作の絶対的なトーンとして全編を覆い、そして、その静謐なショットから、人々の慟哭のような鼓動が聞こえてくることに、やがて気づかせてくれる。


黄インイク(黄胤毓)『海の彼方』日本語・台湾語(2016)

ここ数年、日本と台湾の若手監督により、日本と台湾との関係を再考するドキュメンタリー映画が多く撮られている。日台関係として歴史を捉える手法に、古い世代にはない新たな視点を見出すことができる。その背景には、中国が経済、軍事両面で強大化し、中国企業の台湾進出が強くなることで、台湾の中国依存度が増すことへの警鐘がある。そのことにより、中国の政治状況が台湾にも押し寄せ、台湾が第二の香港になるのではという台湾人の危惧である。昨年、台湾で親・中国政策をとる国民党が敗れ、独立志向の強い民進党が政権に返り咲いたのは、その危機の表れである。それは、台湾のアイデンティティーとはなにかということでもある。ドキュメンタリー映画にもその影響がみられ、しかも、そこにはある傾向がみられるのである。その傾向とは、時代区分とテーマの地理的交差である。時代区分とは、日本統治下の台湾という時代層に生を受けた人たちを対象としていること。地理的交差とは、監督の両国間往来。つまり、自国でドキュメンタリー作品を撮るのではなく、日本の監督が台湾で、台湾の監督が日本で撮るという地理的交差である。前者としては日本語世代の台湾人を撮った酒井充子『台湾アイデンティティー』(2013)、後者としては台湾で生を受け、戦後、日本に帰国を余儀なくされた日本人(湾生)を撮った黄銘正(ホァン・ミンチェン)『湾生回家』(2015)。彼らには、故国・故郷とはなにか、「わたしは何人なのか」という意識がたえずつきまとう。日本語世代は日本が故郷だと思い、湾生は台湾が故郷だと思い続ける。そこから透けて見えてくるのは、時代と国家、戦後台湾を見捨ててきた日本人の意識でもある。台湾アイデンティティー』の監督・酒井充子は述べる「彼らの人生が写し鏡となって、台湾を顧みようとしてこなかった戦後の日本の姿が浮かび上がってくる」と。
黄インイク(黄胤毓)『海の彼方』(2016)の舞台は沖縄・石垣島。特記したいのは、舞台が沖縄・石垣島という日本の辺境であるということ。辺境という特殊な地の台湾人。それは二重の辺境ということであり、彼らの二世・三世は生まれながらに二重の辺境性(それは日本人、沖縄人、台湾人という下降する構造ゆえの辺境の二重性)を纏うことになる。登場人物の静かな語りから、台湾からの八重山諸島移住者の姿が、そして、家族三代の時代層の違いが静かに立ち現れてくる。その丁寧な描き方には監督の確かな視点があり、資料(ドキュメント)の羅列に終らないところに共感が持てる。ただ、散漫なところもあり、そのあたりを整理して描ければ、黄インイクは今後に期待が持てる監督となるにちがいないと思えた。

(補足)黄インイクは現在沖縄に在住。《Cinema at Sea-沖縄環太平洋国際フィルムフェスティバル2023》立ち上げの主要メンバーである。

黄インイク『海の彼方』予告編


石原貴洋『CONTROL OF VIOLENCE』(2015)

ストーリー的に期待したのだが、ヴァイオレンスというスタイルに凭れかかる傾向があり、途中から惰性で見るしかなかった。
欧米と日本のヴァイオレンスの違い。それは大気中の湿度。この映画には土と水が決定的に不足している。つまり映像に水を含んだ泥が見えないのだ。つるんとした映像には湿度もカオスもない。日本のヴァイオレンスには水・湿度が不可欠だ。それだけではない。冒頭の正体不明と名打った〝能面〟は後ろ姿から女性と判別でき、冒頭からわずか数分の酒屋の二代目女性、マコトのショットで〝能面〟の正体が分かってしまうのはどうしたことだろう。渋川清彦だけが魅力的だった。彼が出演していなければ魅力ゼロの映画である。


小田香『色彩論 断章』(2017)

目が色彩を学習する以前の、未だ元素として浮遊する光の運動を見ているようだった。ホセ・ルイス・ゲリンの『夜の列車』を思い出したのだが、それは、フィルムが光を受光したというよりも、光によるフィルムの腐食した跡を見ているのかもしれないと感じたからだ。


葉山嶺『In Search of Colour』(2017)

鍾乳洞の表面をマクロで捉え、微妙にピントをずらすショットがある。合ピンからアウトフォーカスへと移行したときの色彩の変化。それは、ゲーテ『色彩論』の目の移動についての「生理的色彩」と監督との対話であるように思えた。


アルベルト・セラ『騎士の名誉』(2006

冒頭のドン・キホーテとサンチョ・パンサとのシーンから最後の山をとらえたシーンまで一貫した眼差しである。そこには主観ショットを排した揺るぎない客観の眼差しがあり、それを、フィクショナルな「観察映画」、と名づけたくなった。わたしはカメラの目となり、ずっと二人をみつめていたかった。
俯き加減の、いまにも朽ち果てそうな老人の、カメラにとりつけられたレンズの届く最も遠くへの、躊躇いにもにた控え目な長回しの老人ドン・キホーテのショット。ガラクタのような鎧を手にし、「雨が降らないと嘘を言った」だの、「これは痛くないのか」だのと、はたして物語を構成する気があるのかも判然としない対象への眼差しが果てしなく続くかもしれないという見る者の不安がまずあった。この映画冒頭のシーン。おそらくこの時点で、本作にドン・キホーテの、たとえ夢想譚であっても勇壮さを期待した者は落胆するだろう。ドルシネア姫も巨大風車に立ち向かうドン・キホーテも出現することはない。勇ましさといえるものがあるとすれば、オリーブ畑での、風車の力を想起させる季節風に争うように立つドン・キホーテの姿。だが、そんな季節風にすらドン・キホーテは弱々しく、立ち向かうのではなく風に吹き飛ばされるかのごとく足元はおぼつかず後退する。映画終了後の監督のトークによれば、本作はドン・キホーテとサンチョ・パンサが、セルバンテスの物語の行間を散歩するような映画であるという。ならば、ショットの積み重ねで物語を緻密に構成する映画メソッドは、本作においては意味をなさない。役者の自由で即興性を帯びたパフォーマンスを観察者として捉えるには、長めのレンズ(監督からレンズの言及はなかったのだが、望遠気味の映像が多用されている)による長回しのショットが必要なのだろう。これらショットを、本作がアルベルト・セラのデビュー作という意味でファースト・ショットと名づけるならば、これが、監督セラの絶対的ファースト・ショット、つまり、デビュー作『騎士の名誉』がアルベルト・セラの作家としての固有性(作家性)を決定づけているのかという問いを生じさせたくもなる。その判断を監督の『騎士の名誉』以降の作品を見ることで要請したいところなのだが、セラ作品の上映機会の少ない日本に住む(とりわけ地方都市に住む)わたしには不可能だろう。だが、いわば物語から足を踏み外し、説話のクリシェから飛び出したかのような登場人物の、物語の周縁での振る舞いを見た者の眼は、監督セラへの接続程度は確認できたのではないかという気もする。それは、本作に共感するにしろ忌避するにしろ、眼は個人的でありながらも、他者への接近という社会的眼差しでもあるからだ。その中に、社会的記憶への拡大、要するに、作家の固有性の兆しを感じたならば、本作のファースト・ショットが、セラ作品の絶対的意味を確定するものではないとしても、わたしの眼差しはセラ作品に着陸できたのではないかと思った。

アルベルト・セラ『騎士の名誉』予告編

《映画日記3》ホドロフスキー、小田香作品、ほか
に続く。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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