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【映画評】 濱口竜介『ハピーアワー』第3部。眼の力、時間の接続から時間の不在へ

(見出し画像:濱口竜介『ハピーアワー』)

『ハッピーアワー』(2015)が公開され、もう何年になるだろうか。私のような映画に遅れてきた人間がいまさら語るのもどうかとは思うのだが、私自身の備忘録として、『ハピーアワー』第3部について、覚書程度のことを記しておきたい。

なにゆえに第3部なのか。
それは、30代も後半をむかえた気のおけない4人の女性たち、桜子、あかり、芙美、純と、その周辺の人たちをめぐり、核心に触れるシーンが、第3部の後半部分にあるからだ。

《眼の力》

文化ホールの学芸員・芙美の夫は編集者をしている。彼が担当する若手の作家こずえは温泉地をテーマに小説を書いているのだが、新作の自作朗読会が芙美の勤めるホールで行われた。朗読会には芙美の友だちである桜子、あかり、純も参加する。朗読が終了し、作家とのアフタートークのゲストとして、芙美の女友だちである純の離婚係争中の夫が務めることになった。

彼は生理物理学の研究者なのだが、朗読された小説の感想を次のように述べる。朗読された作品には「眼の力」があると。作家は登場人物たちを静かに見つめている。彼女ないし彼の物語に介入せず、あるがままに見つめている。それがこの小説の「眼の力」であると。

このプロットがなにゆえ『ハッピーアワー』の核心に触れるのか。それは、彼の言う「眼の力」とは、映画『ハッピーアワー』への言及でもあるからだ。『ハッピーアワー』は『ハッピーアワー』の時間(=物語)に介入することはせず、あるがままに見つめることを呈示した映画でもある。『ハッピーアワー』の時間はあるがままにあり、生物発生学における、人間の腕が足の付け根ではなく、肩の端部に生成されることが摂理であるように、この小説の時間に介入し変異させるすべはないと、映画の中で、生理物理学者により述べられる。これは映画内で映画について述べる自己言及的現象である。そのためか、二重拘束をもたらすことになる。では、どこに現れるのか。それは思いがけなくおとずれる。自作朗読会のアフタートークの後の関係者の懇談会の席で。しかも、妻の純と離婚係争中である夫の口からである。「眼の力」とは介入しないということなのだが、作家は登場人物を「愛していない」ということでもあると。それは映画『ハッピーアワー』のヒロインたちとかさなるのだけれど、映画を見つめる私たち観客の眼のことでもある。私たちは映画の時間(=物語)に介入しないし、することもできない。物語は流れるままにあり、彼女ないし彼たちを愛することも憎むこともできない。ただ「眼の力」に信を置き、見つめるしかない。そのこと以外になすすべを私たち観客は持たない。

だが、私たちは本当に「眼の力」に信を置くことができるのか。『ハッピーアワー』はタイトルとは裏腹に、登場人物とそれを見る者に、残酷なほどに背理を強いる映画である。それゆえに、「眼の力」を信を置くことでしか、この作品と見る者の融和はないだろう。「眼の力」とは他人ひとの声を聞くということでもある。これは濱口作品の特質でもある。そして、濱口作品に頻出する乗り物での移動や夜から黎明へ時間のうつろいの時間イメージを、「眼の力」と言い換えてもいいだろう。眼の力に担保としてある時間イメージ。私たち観客は、彼女ないし彼らの電車の移動と、夜明けへとうつろう時間をただ見つめ、それに信を置くしかないだから。

『ハピーアワー』は物語構成の重層性に留まらない。そこにはさまざまな引用の織物が潜んでおり、まるで微分多様体のごとくの曲面を私たちの眼は行き交うことになる。
微分多様体の可微分・不可微分の曲面に映し出される4人のヒロイン、桜子、あかり、芙美、純の身体には、確かな重力を感じたことを特記しておきたい。そして、録音・整音の松野泉。音響での松野氏を意識したのは安川有果『Dressing UP』だったのだが、本作においても、ただただ驚嘆するばかりだ。

音声構成は次のようにあったことを付記しておきたい。
テオドール・アドルノの議論に引きつけるならば、眼はつねに緊張・集中の器官だが、耳という聴覚は分散的(コントロール不可能)でつねにまどろんでいるということになる。だが、『ハッピーアワー』はそのことを逆手にとり、分散的である聴覚を緊張させることで、集中ではなく離散、そして時間の不意の接続へと向かわせる、ということだ。これが第2部から第3部への接続である。

《第2部から第3部への不意の接続から時間の不在へ》

妊った純がフェリーで旅立つ。フェリーの機械音が自宅の食卓で眠る純の友人・桜子のテーブルの顔のアップに接続される。桜子の眼からわずかに涙が流れ落ちると、突然眼が開き、映像は突然ブラックウトする。そこで『ハッピーアワー』第2部は終わる。

自己を含めての存在と不在の織り込まれた迷路があり、そこに立ち現れているのは至る所稠密であり疎である地勢。しかも自己の立ち位置が稠密なのか疎なのかも判定不能なトポロジカルな地勢。そんな世界の中で、小説家こずえの読書会の打ち上げの席で、見ることによる世界認識とその限界が語られる。それは世界の残酷さということなのだが、ここで興味を覚えるのが、そんな世界から見えてくる確かさとは、“存在 / 不在” という対立ではなく、時間とは不在のことなのではないかと。
そのことが端的に見えくるのは、純が不在となった終盤の夜の描写。桜子、あかり、芙美はそれぞれの夜へと向かう。だが、そのあとのことは描かれず、いきなりそれぞれの朝の描写となる。本作は時間を描くことを巧妙に回避することで、実は、時間は不連続の連なり、つまり、切断から生成される接続を必要としていることを呈示しているように思えた。これが、「眼の力」の必要性なのではないのかと。

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

濱口竜介作品については下記webを。よろしければ覗いてみてください。

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