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【映画評】 デュラスを語る試み=編集すること。ドミニク・オーブレイ『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』『デュラスとシネマ』

(見出し画像:マルグリット・デュラス)

《オール・ピスト京都2015》の一環として、ドミニク・オーブレイの2作品が上映された。
オール・ピストとは、2006年からパリ・ポンピドゥーセンター主催のもとに開催されている国際映像祭である。2010年から東京でも開催され、2015年から(2015年限定かもしれない)京都でも開催されることになった。

上映作品は
ドミニク・オーブレイ『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』(2002)
ドミニク・オーブレイ『デュラスとシネマ』(2014)

まず、オール・ピストのHPから両作品について引用しよう。

『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』

マルグリット・デュラスの友人であり、『バクステル、ヴェラ・バクステル』『トラック』『船舶ナイト号』などデュラスの映画の編集者として活躍したドミニク・オーブレイによるドキュメンタリー。
「このポートレートはマルグリット・デュラス、あるがままの彼女に近づくために作りました。よく笑い、真面目で、誠実で、挑発的で、注意深く、きっぱりしていて、しかしなによりも若々しく、自由な彼女に近づくために。(YIDFF公式カタログより引用)」

(オール・ピストのHPより)

『デュラスとシネマ』

「アーカイブを集めること、亡霊たちに話しをさせること、それらには常に生きる者を見失ってしまう、という危険がつきまとう。しかし、あらゆる意味でこの偉大な女性に近しかったドミニク・オーブレイ(記録係であり編集者であり、またマルグリット・デュラスの美しい肖像を映画にした)は、そのやり方を心得ており、うまく全体を描いて見せた。そして今日活躍している俳優たちの声を加えることで、めまぐるしく継続する過去、現在、執拗さといったようなすべてが舞っている場所に我々を導いた。」(ジャン=ピエール・レム)
『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』に続く、オーブレイによるデュラスを見つめるドキュメンタリー。デュラス自身、その映画、そして映画そのものをも、彼女の眼差しを通して発見していく。

(オール・ピストのHPより)

horsオール  pistesピストとは「道を外れて」という意味だが、新しい映像表現を求めてというに止まらず、過去をたどるなかで新たな光を見出すという含意があり、興味深いネーミングである。その意味において、実験映像…私はこの表現が好きではないが…を求める従来の映像祭とは趣を異にする。その趣旨から、デュラス作品の映像編集を担当したドミニク・オーブレイの2作品は、まさしくオール・ピストに相応しい作品なのだろう。

両作品とも、従来の伝記映画という時系列から外れたところにあるhorsオール biographiesビオグラフィ「流れを外れて」である。

『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』

作品は、関係者の語りによって不在のデュラスを立ち現せるという、ありがちな安易な手法ではない。映画はデュラスを語らない。そう言えば齟齬をきたすかもしれない。デュラスについて語るのではなく、デュラスによりデュラスを語らせるのである。つまり、Duras par Duras(デュラスによるデュラス)である。

16ミリで撮ったファリミー・フィルム…ファミリー・フィルムは8ミリが一般的なのだが、解像度から判断して16ミリではないかと思う…、撮影時のオフショット、インドシナの幼年時代の写真、『木立の中の日々』を演出するデュラス、女について語るデュラス、母について語るデュラス、欲望について、政治について、克服できない不可能について語るデュラス。これら映像は、デュラス存命中に撮られたものであり、言うまでもないが、映画『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』制作を意図したものではない。ここで重要なのは、映像はすでにドミニク・オーブレイではない他者により撮られているということである。つまり、世界はすでに在るのである。マルグリット・デュラス作品の編集者であるドミニク・オーブレイは、デュラス作品を編集するかのごとく、「あるがままのデュラス」を出現させる。その構成は主題化されてはいるものの、かなり自由に移り変わる。ドミニク・オーブレイによれば、「可能な限り音楽的」であり、「リズムというものが重要」であるという。このリズムがデュラス作品の反照であるか否かは分からないけれど…もちろん、反照である必要はない…デュラスの文体と呼応していることは間違いない。そこにあるのは、たとえばデュラスの小説に置き換えて述べるならば、デュラスの、私が一番のお気に入りは文体、とりわけ「話法」と「時制」である。オーブレイの言う「音楽性」と「リズム」とは、デュラス特有の「話法」と「時制」のことではないかと思ったのである。

『デュラスとシネマ』

この作品の、ドキュメントの新たな可能性に注目したい。
それを断片化するとこうなるだろう。
 世界の終わりを見ること
 イメージによる干渉
 物語⇄映像
 関係を持とうとすること、それは不純、接近は不純である 
 テキスト→文字による視覚化→他者による朗読を誘引する
 他者のテキスト(ブノワ・ジャコと、ブリュノ・ニュイッテンだったかジャン=ピエール・リモザンだったか)→テキストのレンブラント光線下での俳優による朗読→このことで演劇性が立ち現れる

これはデュラスの存在(彼女の映画)そのものの出現と言えないだろうか。
素晴らしい映画を見てしまった気がする。

(日曜映画感想家:衣川正和 🌱kinugawa)

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