《映画日記18》 三宅唱・中短篇集『無言日記2014』/『八月八日』/『1999』/ ほか
(見出し画像:三宅唱『密使と番人』)
本文は
《映画日記17》記憶を復元する(Vol.2)蔦哲一郎/中村拓朗/イ・チャンドン/ジョナス・メカス/ほか
の続きです。
この文は私がつけている『映画日記』からの抜粋です。日記には日付が不可欠ですが、ここでは省略しました。ただし、ほぼ時系列で掲載しました。論考として既発表、または発表予定の監督作品については割愛しました。
また、地方に住んでいるため、東京の「current時評」ではなく「outdated遅評」であることをご了承ください。
私が三宅唱監督作品をはじめて見たのが『Playback』(2012)だった。それ以降、三宅唱作品を時間が許す限り見るようにしていたのだが、うれしいことに、中短編作品の連続上映が地元の映画館であった。上映会の全作品を鑑賞できたわけではないが、Music Video (以下MVと記す)を含めた貴重な上映会であることから、時間の許す限り見ることにした。
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三宅唱『Sunny Day Service「Tokyo Sick feat.MARIA (Va Va Remix)」』4分(2018)
サニーデイ・サービス(曽我部恵一、田中貴)のMV。
MVといえばタレントやミュージシャンを配することで楽曲のイメージを喚起あるいは具現化させることが多いのだが、本作は、人物を都市の風景の一部として捉えることで物語の発生を抑制し、逆に都市に降り注ぐ光と都市が発生する光といった波動をフレームに充溢させることで、巨大都市・東京が作り出す瘴気のような怪しさを表象させているように思えた。大きな画面で見ることで発見できた幸せな時間だった。
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三宅唱『あかね空の彼方』6分(2018)
butaji 2ndアルバム『告白』の収録曲「あかね空の彼方」のMV
『Sunny Day Service「Tokyo Sick feat.MARIA (Va Va Remix)」』(2018)が人物を排していたのに対し、『あかね空の彼方』はbutajiを前面に配したMV。さらに虎猫も登場。『無言日記2014』にも猫が登場していた。
公園を徘徊するトラ猫とフレーム下部を横切る薄暮れの航空機の印象的なショット。なんて素敵な始まりなんだ。Sunny Day ServiceのMVと違い、コンクリートの傷跡のような修復や落ち葉といったディテールへのこだわりとbutajiへと向けるフレーム。やがてそれらは荒い光の粒子となり都市を疾走してゆく。ラストのトラ猫はあかね色。ずっと見つめていたい。
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三宅唱『ActNBaby feat.jjj (BLACK FILE exclusive MV ”NEIGHBORHOOD”)』4分(2015)
OMSBのMV。
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三宅唱『GEZAN – BODY ODD feat.CAMPANELLA、ハジマ、LOSS、カベヤシュウト、OMSB』6分(2018)
GEZANのMV。三宅唱監督のMVを4本見たことになるが、PCではなく、大画面・大音量のMVは全細胞がセンサーになったかのようで高揚感がある。細胞が粒として沸き立つような感覚を覚えるのだ。これは、画面・音量が大きくなることで、画素・音素の粒子が立体として立ち現れるからなのだろう。何年か前にやはり地元の映画館でクランボンのライブ映像を含めたMV特集を見たけれど、再びそんな企画を開催してくれないだろうか。ヘッドフォンや家庭での再生では不可能なお腹にズシリとくる重低音を感じたい。
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幼少時よりバレエ、ダンスを続けてきた女優の石橋静河と、三宅監督と撮影の四宮秀俊によるコラボレーションから生まれた作品。日常にあるさまざまなからだの動きとダンスの運動との行き来によって、映画における魅力的な体のあり方を一緒に探ったという2本の短編『NAGAHAMA』『八月八日』。
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三宅唱『NAGAHAMA』18分(2016)
撮影:四宮英俊、挿入歌=優河「青い国」、出演:石橋静河
漆黒の闇に波の音があった。それから砂浜に腰を下ろしたワンピース姿の女へと向ける簡潔なショット。浜辺にひとりの女。ワンピースは足首までとどくほどの長さ。しかも身体のラインを隠すゆとりのあるフォルムで、髪の色と同じ深い黒。そのためか、女の顔の表情が際立つ。それは、女がそこにおり、海を見つめ、波の音に耳を傾けているのだということ以外、私たち見る者に何ら情報を伝えることを拒んでいる。これが始まりのショットだ。これは素晴らしい。
女は浜辺を歩く。緩やかに。その足どりは確かなように見えるのだが、腕を上部へと流れるように移行させると、足は幾分浮遊したように思えた。これを舞の始まりと称したくなる。四宮英俊のカメラとのダンス・デュオの始まりだ。
だが、これでは誉め殺しとなりそうな気がする。正直な感想を述べるならば、石橋静河のダンスにはそれほどの魅力は感じなかったし限界をも感じた。本作も監督+撮影+ダンスの模索に止まっているようでもあった。石橋静河はこの後、俳優+ダンスへの道へと進むのか、それともダンスを封印し俳優に専念するのか。私は後者に期待したい。
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三宅唱『八月八日』13分(2016)
撮影:四宮英俊、出演:石橋静河
ソファーに俯けに眠るひとりの女。上半身が毛布で覆われているためか、ジーンズ地の短パンとそこから伸びるすらりとした脚に目が向く。カメラは女の背後を捉えているのだが、その肢体の体温というか、湿度を纏ったかのような空気感が艶かしい。
『NAGAHAMA』と同じく。本作は石橋静河のための映画である。監督の三宅唱と撮影の四宮秀俊がぞっこん惚れてしまった、ということなのだろうか。『八月八日』は、俳優・脚本家・石橋静河の、八月八日の目覚めから夜までの一日のフィクショナルな映画である。朝食を作り、パソコンに脚本を書き、台詞として読み、プリントする。物語というほどでもないがフィクショナルな一日。物語を捏造しようとはしない。石橋静河は魅力的な俳優だ。
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三宅唱『1999』3分モノクロ(1999)
撮影・出演:三宅唱
中学校の、おそらくは文化祭準備か昼休みかの自由な時間。自由とは〈追っかけっこ〉のようにただ“追いつきたい/追いつかれまい”と疾走する無邪気さのことだ。大人となった私にはそんな自由を獲得するのは難しいけれど、だからといってそれを心に留めておくだけじゃダメなんだと思える中学3年生の三宅唱が撮った驚くべき短編。
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三宅唱『やくたたず』76分(2010)
この作品を見た村上淳が、三宅唱に一緒に作品を作りたいと連絡した話は有名。そこで製作されたのが村上淳主演『Playback』だ。
映画批評家の廣瀬純が述べていたことだが、ロングで集団を撮ることで集団としての関係を決定づけている。確かにロングのフレームの中に登場人物たちが収まっていて、そこからはみでることは少ない。フレームからはみ出るのは終盤。テツオたち3人のアルバイトの期間が過ぎ、それぞれ自分の役割へと戻るときだ。卒業を控えた自由だが精神的には不安定な一時期の青春群像劇。札幌の寒々とした冬景色とモノクローム画像が、“自由/不安”を巧みに描いている。
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三宅唱『密使と番人』60分(2017)
時代劇専門チャンネル・日本映画専門チャンネル作品である。
追われる者は逃げねばならぬ。それが不義であるとかないとかなんて関係ない。未来を想えば逃げねばならぬ。同志がきっと待っていてくれるはずだから。
追われる「密使」と追う「番人」。使命を帯びた追われる者と使命を帯びた追う者。これだけで充溢する映画があるのだ。この簡潔な物語構造以外に何が必要だというのだ。台詞も最小限に抑え、台詞劇の構造となることに抗うことで、物語の立ち上げを抑制している。それは、“追う/追われる”だけで充溢するからだ。余計な味付けをしなくても素材を活かすことで美味となす卓越した料理人のようだ。
“追う/追われる”という構造。三宅唱が中学3年で撮った『1999』(99)も追いかけっこという“追う/追われる”構造だった。最初の長編である『やくたたず』(10)にも車泥棒を追跡する〝追う〟の構造を見ることができた。『Playback』(12)には直接的な〝追う〟の構造を見ることはできないのだが。
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三宅唱『無言日記2014』66分(2014)
撮影:三宅唱
本作はi-Phoneで撮った三宅唱監督のプライベートビデオであり、boidマガジンの樋口泰人氏が委嘱した作品である。
私は2015年8月16日、京都みなみ会館で本作品を見ているのだが、その時のタイトルは『無言日記』だった。今回の上映では「2014」と製作年が入っている。それは、本作の続編『無言日記2015』『無言日記2016』…と、その後も製作が続いているからだろう。
プライベートビデオを見せられることほど苦痛なことはない、という経験を私は何度かあじわっている。ところが、三宅唱監督『無言日記2014』はiPhoneで撮った彼自身のプライベートビデオなのに、不思議なことに面白い。監督の、日常に見える、少しも特別なことのない凡々たる日々を撮ったに過ぎない映像だというのに。
それは、三宅監督特有の編集にあるのかもしれないけれど、そうではないようにも思える。
何を見せ、何を見せないか。目覚め、食事、仕事、会合、移動という日常が、社会に向ける三宅監督の眼の編集作業であり、そのことが、プラーベートを超えた、公共へと投影される「映画」として現れるからなのだろうか。
そう思わせるのは、見せないものは確かに見えないのだけれど、それでも、見せないものがショットとショットの間に潜んでいる、と観客である私(たち)に感じさせるものがあるからだ。そのことが、プライベートを超えて、映画(=公共)が立ち現れてきたのではないかと思うのだ。
プライベートビデオを見せられることの苦痛は、製作した当事者には理解できないだろう。プライベートとは私性化された物語、つまり、他者へは発信されない宿命を背負った閉じた時間そのものだ。誰がそんな映像を好んで見るのか、公共化されない物語はつまらない、と私は感じるのだ…私はいじわるだろうか。
私性にとどまる限り、その中には外部に放出するものは何もないし、他者が入り込む余白もない。そのことを気づくこと、それも才能なのである。
では、プライベートビデオを公共化するにはどうすればいいのか。それは私性を排除することだ…といってもこれが難しいし、私にはその手法を知らない。
『無言日記2014』が面白いのは、惜しげもなく私性を捨て去る大胆さがあるからである。アマチュアや才能のない監督にはそれができない。何かを撮ろうとすると必ず私性としての物語がウィルスのようにフレームを覆い隠すのだ。私性を捨て去るとは、私性の虚構化、感情と意志の顕現化、私性の除去、私性への不意の公共の侵入、私性と公共との怪しげな横断・振幅…。
『無言日記2014』が見せるのは都市の風景だけだ。それ以外何も見せない。何も見せない意識があるからこそ、この映像では特異とも思える次の2つのショットが公共の物語の発生を誘引させている。
ひとつは、列車(新幹線)のデッキに立つ女の脚のショット。デッキと客席を分ける車内扉下部のガラス越しにのぞかせる女の、それは扉で上半身を確認することの不可能な顔のない女の生脚としか表現しえないほどのすらりと伸びた裸形の脚。それは扉で見えない部分の裸体を想像させもする艶かしいショットであり、エロスとしての香りがフレーム内に充満しているショットだ。
そして地震(3.11関連なのだろうか)で手にしたスマホが落下した路上のショット。どちらも短いショットなのだが、不意に公共へと私性が舞い降り物語が発生する瞬間なのだ。
ずっと見つめていたい、そんなプライベートビデオがあることに驚嘆するとともに、ジョナス・メカスのプライベートフィルムを想うのだ。依頼者である樋口泰人氏は言うまでもないが、三宅監督にも〈メカス→三宅〉というベクトルはあっただろうし、それにとどまらず、本作は〈メカス⇆三宅〉という相互参照としてもあるに違いないと思ったのだ。
《映画日記19》パリの映画日記
に続く
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)