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《七里圭作品・鑑賞日記》 (Vol.4)『闇の中の眠り姫』

本文は《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.3)小品集の続きです。

2014年6月14日
『闇の中の眠り姫』@立誠・シネマ・プロジェクト

ここで私が綴る言葉は、本文の後半に、記憶にまつわる私的な感情や経験の吐露を含むもので、必ずしも公にすべきではない内容もある。そのため、『闇の中の眠り姫』の作品論とはいくぶん位相を異にする言説となっている。

七里圭作品を知る者なら、その代表作として、どのような作品を思い浮かべるだろうか。私にとっては、『眠り姫』ということになる。その理由は簡単である。七里圭作品をはじめて見たのが『眠り姫』アクースモニウム演奏上映版だったからである。そのとき感じた衝撃は計り知れないものだった。どのような意味で衝撃だったのか、詳しくは《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.1)をお読みいただければと思う。

さて、今回の『眠り姫』は、『眠り姫』(アクースモニウム上映版)に続いて2度目の鑑賞となる。それも単なる再鑑賞ではなく、『闇の中の眠り姫』。つまり、本編『眠り姫』は未だ鑑賞の機会が訪れていない。

〝闇の中の〟とは、本編『眠り姫』から映像を消し去り、真っ暗な空間で映画を鑑賞する試みである。七里監督によれば、本作のコンセプトは「映画から、いっさいの光を取り去ったら、いったい何が現れるのか」「『眠り姫』本編のサウンド・トラックを、圧倒的な音響で、深い暗闇を見つめながら、ひたすら浴び続ける」ことである。
これがオフィシャルな企画コンセプトなのだが、そのこと以外に、この上映から派生する映像と音響の関係性にまつわる問いの現れも含んでいるだろう。映像と音響七里作品体験の少ない私は『闇の中の眠り姫』鑑賞時点では気づかなかったのだが、“映像/音“の問いを思ったのは、本編『眠り姫』製作が、マルグリット・デュラスの作品(たとえば『インディア・ソング』(1975)、『ヴェネチア時代の彼女の名前』(1976))を参照事項としているからである。
デュラスはゴダールとの対話でこう述べる。「一般的に言って、あらゆる、もしくは本当の映像はテクストを邪魔する。映像がテクストを聞こえなくしてしまうのよ。私が欲しいのは、テクストの自由な通行を妨げないような映像。わたしにとって問題はこれに尽きる。」(『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』(読書人刊)よりデュラスの発言)。
七里監督がこの問いを結晶化させたのが本編『眠り姫』(2007)であり、その思考の流れゆく先で『音楽としての映画』(2014)から『あなたはわたしじゃない』(2018)へと先鋭化したのではないのかと私は思うのだ。この点に関しては、後のnoteで言及するつもりである。

サウンドは映像の付随物にすぎないのか、映像からサウンドを切り離したとき、そこに私たちは何を見るのか(感じるのか)。ここには七里作品の以後の問い〈サウンド⇄映像〉の胚胎があると考えてみたくもなるのだが、これは先走りすぎだろうか。解釈よ「進むな、遅れよ」との声が聞こえそうだ。

映画は光(フィルム的には光の作り出す影→《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.3))である。映画の黎明期、光なくして映画は存在しなかったし、その後も、光なくして映画は存在しない。フレームの向こうには光があり、フレームのこちらには闇がある。映画館の闇は光を顕現化させるその一点のためにあり、たとえデジタルプロジェクターによる上映であっても、闇なくして映像は認識できない。しかし、闇そのものの中で、映画、もしくは映画館はどのような表情をみせ、振る舞うのだろうか。

映画を唯物論的に定義するのは簡単だが、認識論的な定義となると、私たちの思考は曖昧になる。映画とは一体何なのか。どこからが映画であり、どこまでが映画であるのか。光がなくとも映画は存在し得るのか。闇さえあれば映画は成立し得るのか。私たちは映画の存在論的本質について、考えを深めなければならないのだ。

『闇の中の眠り姫』は、七里監督が映像と音響を分離するという意思に基づいて製作した作品である。監督は、映像にのっぺりとくっついた音を引き離したいと思ったという。〝のっぺりと〟という指摘は映画製作者ならではの言葉だろう。音は映像にどうしょうもなくのっぺりと張りついている。しかし、映画の中で音を映像から引き離すことで何が立ち現れてくるのか。それを再確認する作業が、『闇の中の眠り姫』である。つまり、映画『眠り姫』の映像(光学)を封印し、映画館の〝深い闇〟という〝映像〟をみつめながら、圧倒的なサウンド・トラックにただ身を浸すのが、今回の上映目的である。

『闇の中の眠り姫』の最初の上映は2010年。私は2013年6月13日が七里圭作品と最初の出会いであり、初上映会場についての詳細は知らない。〝闇〟という魔術的言葉と初上映時期から、アップリンクFACTORYではないかと推測する。七里監督によると、針の穴ほどの光も遮断しての上映だったという。単なる闇ではなく、漆黒の闇、絶対的な闇であり、七里監督の表現を借りれば、〝暴力的〟な闇である。たしかに、絶対的な闇は見る者の精神を攻撃し、麻痺させる、いわば拷問のような空間状況であり、まさしく〝暴力的〟である。そんな意味で、2010年の上映は暴力的なものであるだろう。だがここに、私たちは絶対的な闇(=暴力)を必要としているのか、上映における闇とは何なのか、という問いが生じる。

七里監督ははじて作品を上映した翌年、3.11(東日本大震災)を経験し、それがもたらす〝暴力的〟の意味に疑問を抱いたという。3.11後も〝暴力的〟状況は続いており、人為的に暴力的空間を作り出すことに対し疑問を感じたのである。つまり、人間が作り出す人工的な暴力性に意味はあるのか。
3.11後、いくつかの劇場から上映のオファーが舞い込んだ。その中に吉祥寺のバウシアターもあった。劇場の閉館に伴う最後の上映依頼である。
バウシアターの舞台では、絶対的な闇を作り出すことは不可能であることが判明した。劇場の構造上、いくら頑張って塞いでも光が漏れ入る薄い闇としかならない。七里監督にとってこれもありだと思えた。それは〝薄明〟と呼ぶべき闇であった。薄明という闇は、いわば救済(これについては後述する)を内包しているのであると、監督は思ったのかもしれない。

私が鑑賞したのは、かつては京都市立の小学校の教室であった立誠・シネマ・プロジェクトである。1928年建設の小学校の教室は(おそらく)バウシアター以上に、どこからかうっすらと光が漏れて入り、神秘的な様相を呈した薄闇である。だがそうであっても、スタッフの努力で綿密に目貼りした教室内は、漏れ入る微かな光以外のすべてを飲み込む闇に包まれていた。周囲の存在はもちろん、自分自身ですら視覚としては認識できない闇であった。

人はこの闇の中で、何を見、そして耳にするのだろう。そんなことが気になり、上映が終わった後、私はTwitter(現在はX)を覗いてみた。面白いツイートが散見された。それらの多くは、「少しでも明るい箇所を探して視線を漂わせる」というツイートである。実は、私も同じような思いを抱いていた。上映が始まると、しばらくの間、光を求め視線を漂わせ、ただひたすらイメージを求めようとしたのだ。イメージとは、広義には、形状や質感だけではなく、たとえば、プルーストのような、夜に眠りにつく前に思い浮かべるイメージも含まれるが、本上映においてはそうではなく、物質的な現実の中で光の反射が映し出す教室内の具体的な狭義のイメージである。
映画館という闇の中では、光なくしてイメージは存在しない。私は物質を映し出す光を求め、眼前の物質的イメージを具現化しようと視線を漂わせた。なぜ私はそうするのか。その理由は何なのか。私はすでに『眠り姫』(アクースモニウム上映版)を見ており、映像としての断片がすでに脳裏にあるからなのか。それとも、いま耳に入ってくる音が、映画特有のサウンドであるからなのか。もしもこれが、映画のサウンド・トラックではなく、ラジオドラマだとしても、光が映し出す物質的イメージを探し求め、視線を漂わせるだろうか。結論は分からない。ただ言えるのは、上映が始まってしばらくの間は、イメージばかりを追い求めて、サウンド・トラックの細部までは、意識を向けることはできなかった。この状況は、暗黒の子宮の中で目を閉じて瞑想している胎児に似ているのかもしれない。いわば「体内瞑想」(埴谷雄高『薄明の思想』)とでも呼ぶべき事態である。だが、そこには、外的な何かにより、徐々に目覚めようとする意識の蠢きも感じた。そうすると、徐々にサウンド(とりわけ台詞)が意味を帯び、それに伴って、研ぎ澄まされる耳を認識し始めた。音が耳元に繊細に立ち現れてくるのだ。とはいえ、それは映像があるとき、つまり、『眠り姫』(アクースモニウム上映版)と同じように聞こえるというわけではない。間違いなく、何ものかの力が、たとえ薄闇といっても不可視の暴力下におかれた耳の作用としての意味の形成であり、サウンドが突如として物語へと向かう過程が現れるわけではない。

薄明の闇という映像のない世界を出現させることで、より多くのサウンドが響き渡るのだろうか。闇と、目を閉ざすこととは異なる。より多くのサウンドが響き渡るのではなく、そこでは、未知なる世界の到来の予感と、その世界の出現の不在が漂う、いわば不条理な世界の出現のようでもあった。いわば、永劫の未出現である。

「体内瞑想」で迷子になりそうになった私だが、目が慣れてきたのか、やがて目が引き寄せられ、視線の先にうっすらと矩形の白が現れた。その姿はまるで亡霊のようにぼんやりスクリーンに浮かび上がった。「あっ、これは映画なのだ」と思った。映画とは矩形の白という亡霊であり、世界のいまひとつの嘘なのだと。すると、なぜかサウンドにイメージが重なりはじめた。そのイメージとは、すでに見た『眠り姫』とはまったく違っていた。不思議なことに、記憶喪失としてのイメージである。

私は短い時間だが、部分的記憶喪失になったことがある。幼少期は京都に住んでいた私は、青年期からしばらく東京に住み、そして京都に戻った。京都に戻り数年後、一瞬なのだが、記憶が薄らいだ。私は京都に戻ってきたのか、それともまだ東京にいるのか、記憶が曖昧となったのだ。いまとなっては、なぜそのようなことが起きてしまったのか判然としない。薄れる意識の中で、記憶を取り戻そうと、自分自身に問いかけた。それは、記憶を再生しようとしたのではない。そうではなく、イメージの復元、意識に浮かぶ映像を取り戻すこと、イメージの再構築である。私の最寄り駅や自宅までの道順は、自宅の間取り、さらには東京から京都へとどのように移動したのか。明確なイメージが現れるまでには幾分時間がかかったのだが、その過程で、乳児が最初に目にするような茫漠たる光のような、形ではなく、光のイメージの亡霊を見たのだ。それが、『闇の中の眠り姫』のサウンドの中で立ち現れたのである。どうしてそうなったのかは分からない。過去となった出来事が、不意と思えるほどの唐突さで立ち現れ、『闇の中の眠り姫』が私の記憶に侵入してきたのである。まるでつげ義春の『ネジ式』のような「闇が侵入する」イメージである。そのとき、闇とは、イメージの復元装置であるという、奇妙な感覚を抱いたのである。闇が記憶に侵入する、それは、私にとり救済であった。

記憶への侵入がしばらくつづき、気づくと私はイメージを求めなくなっていた。それは自己の意思として求めなくなったのではなく、すべてのイメージが消し去られ、代わりにサウンドだけが残った。サウンドが私の意識を呼び覚まし、物語とは離れたところにサウンドは純粋にあった。ただ、「純粋に」という意味は明確ではない。それは、いまを漂う不可逆なサウンドの時間という、物語から自立したものなのかもしれないと思ったのである。「いまを漂う不可逆なサウンドの時間」とは映画上映の時間でもある。映画の時間をも感受しながら、「物語とは離れたところにサウンドは純粋にあった」という非映画的時間をも認識するという矛盾。この矛盾が、『闇の中の眠り姫』なのである。

薄れた記憶のイメージが紡ぐ時間の中で、心揺さぶるサウンドと記憶の交錯する『闇の中の眠り姫』。(薄)闇はそれら時間を貪り飲み込んでしまうのだ。

この不思議な現象を体験すると、闇とは〝暴力的〟な存在なのだろうかとも思う。ここで断言できるのは、〝薄明〟の闇からはさまざまなモノが現れ、〝薄明〟だからこそ立ち現れるものが多いのだ、ということである。

映画という媒体における映像と音。二つは不可分な関係にあり、対立項としての“映像/音”、そして融合項としての“映像/音”の問いを発生させる。両者は、映画とは何かという問いと深くで結びついている。そのことを、『闇の中の眠り姫』は私に示してくれたのである。

(補足)
ここでひとつの補足を加えたいと思う。
私は「映画とは矩形の白という亡霊であり、世界のいまひとつの嘘なのだ」と述べたのだが、それは、「その姿」が「ぼんやりスクリーンに浮かび上が」ることが前提としてある。この場合の亡霊はあらかじめあるものではなく、感覚的でありながら恣意的でもある幻覚のようなしかたであるのであり、私の視線と精神の漂いなくして、つまり、事物の内在的性質のようにあるのではない。「指がなくなれば、炎から痛みが「なくなる」」(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』人文書院刊)ように。

《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.5)に続く

(映画遊歩者:衣川正和 🌱kinugawa)

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