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《七里圭作品・鑑賞日記》 (Vol.3)小品集『時を駆ける症状』『ASPEN』『To the light』〈〈自己〉を見る自己〉

(見出し画像:七里圭『To the light 2.0』「Kei Shichiri HP」から)

これは《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.2)の続きです。

2014年6月8日
七里圭特集《短編作品集5篇》@立誠・シネマ・プロジェクト

各作品1000字程度に収めました。


『時を駆ける症状』(1984)8㎜*デジタル上映

七里監督が、高校の文化祭上映に向け撮った初の監督作品である。
タイトルから誰もが想像するであろう筒井康隆原作による大林宣彦『時をかける少女』(1983)。「少女」を「症状」としたのは七里監督ならでは遊び心だけではない「病」とも思える狂気を宿した監督の眼。
本作はある種のオートマトンというのか、人にはコントロール不可能な症状が現われ、自動記述的な状態を描いた作品と言える。大林作品へのオマージュでは決してない。私は大林作品を評価する者ではないからそう思いたいだけなのかもしれないが…。

映画監督にとり、映画についてそれほど理解の深くない時期の作品を再上映することは、自分の傷をさらけ出すことでもあるのかもしれない。だが、露出オーバー気味の映像(ただ単に高校生の技術的な問題だけかもしれない)や背後の存在としての少女という手法は、その後の『眠り姫』(2007)に見られる、気配による存在の表出やエロスを予感させるものがあり、初の監督作品であるがゆえに興味深い。そして始まりがあり終わりがあるという映画の宿命にも監督は自覚的である。始まりはそれほど難しくないかもしれない。それは、始まりは自然だからであり、カメラを回す以前にすでに始まりはあり、カメラを回せば映画としての始まりがとりあえず決定する。だが、終わることの困難は人の死同様、延命を志向・思考するのは当然のこととしてあり、決断を誤ると映画自体の死を見ることになる。そのメタ表現として、本作は終わることの反復という時間のループによる終わることの困難をも表現しているのである。そして、終わりなき昇降踏み台の反復運動の時間性には、この作品をどこまでも持続させようとするテクノ性・無時間性が見られる。これは撮影過程での仲間からの孤立・疎外感の表出でもあったのではないだろうか。

(七里圭『時を駆ける症状』「Kei Shichiri HP」から)

七里監督は早大映研時代に2本の作品を撮っているが、映研時代の作品は封印しているという。『時を駆ける症状』はその後の作品の予兆はあるものの、大学卒業後の作品とは切断面もあるだろうから、その変遷過程でもある早大映研時代の2作品は、七里作品の理解には不可欠であるに間違いない。封印を解くのはいつになるのか。それは七里監督がある到達点に至った時なのかもしれないのだが、監督が到達点とするものが如何なるものなのかを知る由もないし、監督自身も分かりようがないのかもしれない。


『ASPEN』2バージョン(「1本道篇」「白樺篇」)(2010)

音楽:クラムボン、撮影:七里圭、高橋哲也
出演(ダンス):黒田育世

クランボンのアルバム 『2010』は、タイトルが示す通り2010年に発表されたアルバムであり、「ニセンジュウ」と読む。私はJ-Popをそれほど聞くほうではないが、原田郁子のアルバムはそれなりに聞いているし、CD・LPも所有している。楽曲や詞も含め、原田郁子の歌いは聞く者に意味が直接届くというのか、言葉が意味としてすっと立ち現れるような声の佇まいを感じる。私は彼女の曲をイアーホンで聞くことを好まない。スピーから流れる音を空気の振動として聞く。言葉が意味としてすっと立ち現れるような声の佇まいとは、そんな振動が作りだす空間でもあるからだ。
原田郁子が祖母の死に遭遇し作った曲が、アルバム『2010』の中の一曲「Aspen」である。

七里監督はこの曲のPVを、35㍉フィルム3ロールという、物質的限定下で依頼されたという。依頼したのはダンサーの黒田育世。1ロールは、通常10〜15分(私の勘違いかも)だったと思うのだが、七里監督の手にした1ロールは何分なのかは不明である。
監督は「1本道篇」「白樺篇」の2本のPVを撮っている。「1本道篇」を2ロール・2テイク、「白樺篇」を1ロール・1テイク。それぞれ1曲分をノーカットで連続撮影したという(私の記憶違いだっらお許しを)。保険的なテイクを考え、同一シーンを複数ロール・複数カットが一般的だと思うのだが、3ロールという極限的経済制限があるとはいえ、無謀というか、撮りっぷりが潔い。

「1本道篇」
フレームの左右から樹々のざわめきを見せ、空はすっきりと青く抜けきっている。強い風雨の後のような青。なにか慈愛のようなものが始まる気配を感じる。すると間もなく、チェロによる持続音とピッチカート音が2つ3つ。そして音が動き始める。慈愛とはこの音の流れのことなのだろうか。カメラは緩やかに下にパーンし、そこは並木の1本道であることが分かる。中央にひとりの女(黒田育世)が佇み、「Aspen」の楽曲とともにカメラは黒田にゆるやかにズームする。弦楽とピアノ、原田の歌とそれらを包み込む大気の中で黒田は舞い始める。それは、身体が何かを呼び込もうとしているようでもあり、あるいは大気との交合を求めているかのようでもある。黒田の身体は、まるで大地から根を生やしたかのように見え、ダンスを超えて、彼女の身体は彼岸と此岸を分ける結界であるように思えた。樹々のざわめきは黒田の身体と饗応し、それが結界と寄り添っているかのようだ。彼岸は黒田の背後にあり、カメラは此岸からの眼差しである。そこには、欧米のアート批評言語に還元されない土着の舞踏を思わせるものがあり、湿度と一体化した日本の大気のダンス(=舞踏)を感じるに十分だ。カメラはその様相をあるがままに捉え、結界としてある黒田の身体は、フレームを通して見る私の網膜の背後へとゆるやかに消滅していく。そして消滅のあとには、樹々のざわめきと、奇跡と思いたくなるほどの青い空だけがあった。

どこまでもゆこう きみは手をのばすのに
ぼくは まだ行くあてを決められない
透きとおる きみの目に映るぼく
そのまま闇のなかに包まれたい
(「Aspen」より、詞:原田郁子)

「白樺篇」
カメラが引きに入り黒田育世が背景の白樺に同化するエンディングは秀逸である。
「このままずっと 笑顔も泣き顔も なくなってもいい 静けさでいい きみと過ごした ささやかな時間さえ すべてなかったことになりそうなほど こころが張り裂けそうでこわい きみのやさしさに答える言葉がほしい」(「Aspen」より、詞:原田郁子)。
忘却することの恐ろしさと祖母への畏敬に満たされた楽曲である。黒田育世が白樺に同化するのは、「忘却」「恐ろしさ」「畏敬」の表出としてあるかのようだ。

(七里圭『Aspen 白樺編』「Kei Shichiri HP」から)


『To the light』2つのバージョン「1.0」「2.0」11分(2014)

撮影:高橋哲也、宮沢豪、音楽:池田拓実、出演:古賀彰吾、人形:清水真理

シングル8のタングステンタイプの生産終了が2010年、デイライトタイプの生産終了が2012年。『To the right』は8㍉フィルムへのレクイエムのようにも思えるのだが、それにとどまらぬ様相を見せる。8㍉フィルムの粗い映像を基層に、紗幕にデジタル・プロジェクションで像を重ねたのが「2.0」であり、「1.0」のリミックスとなっている。この場合のリミックスについては下記(*)を。「2.1」を製作進行中だという。

「像は重ねることで光となる」(七里圭「Kei Shichiri HP」から)。紗幕ではないが、白色のフレームに像を重ねることを想像してみる。たとえば写真家の杉本博司(注*)がアメリカで映画館の内部を撮った作品「劇場」シリーズ。スクリーンに投影される1本の映画の始まりから終わりまでの時間、シャッターを開放にして大型カメラのフィルムに映像を写し込ませた写真作品。そこに現れるのは光の痕跡、光の溶解である。私たちは像を見ているのではなく光の痕跡とその後にある、それは脳細胞内で起きる光の溶解(=信号)に過ぎないということが分かる。
光は波であり光子であり、速度の停止で消滅する。光に物性があるのかないのか。物性としてではない光の語りは可能なのか。『To the right』はその映像としての言説のように思えたのだが、〈光⇄闇〉の止むことのない運動がいつまでも持続し、「光へ」と呟きたくなった。

フィルムに投影される光は陰・影として現れ、デジタルは光そのものとしてあるということ、そのことだけは確かなように思えた。

(*)「1.0」のリミックスとしての「2.0」。この場合のリミックスとは増殖、自己に関する自己という、自己を内部にとりこんだ層のことで、これを〈〈自己〉を見る自己〉と理解してみる。本作の場合、これら自己は、いわば亡霊化した自己でもあり、バージョンの流れから見ると、この亡霊化の行き着く先を知るすべはないように思える。製作中の「2.1」というはその止むことのない亡霊化のとりあえずの提示(=〈〈〈自己〉を見る自己〉を見る自己〉)と理解できる。これは果てしなく続くことになるのだが、仮にこの流れを中断することは、元の「1.0」の消滅を意味することになるのかもしれない。なぜなら、たとえ「像は重ねることで光となる」としても、光は停止(=遮断)することで消滅するからである。
私の妄想をさらに進めてみる。〈〈自己〉を見る自己〉を自己(=映画)の中に自己(=映画)を紛れ込ませる自己の二重性というもう一つの自己(=映画)を出現させること、と理解すると、七里監督が2018年に製作した『わたしはあなたじゃない』に繋がるのではないだろうか。この件については後の《七里圭作品・鑑賞日記》で詳しくふれるが、もし私の理解が正しいとするなら、『わたしはあなたじゃない』の原型が、『To the right』のさまざまなバーションにあることになり興味深い。

(七里圭『To the light 1.0』「Kei Shichiri HP」から)

(注*)杉本博司:1948年東京生まれの写真家、美術家、建築家、演出家。大判の8×10インチフィルムによる写真制作。世界を形態ではなく光の現れとして捉えることを特徴とする。『劇場』シリーズはその代表作だが、『SEASCAPE』『建築』は焦点を無限遠点の2倍に合わせた、いわば世界のどこにも焦点を結ばない映像として捉えた作品制作をしている。私は『建築』シリーズをはじめて目にしたとき、目の網膜の、さらにその背後に像が到達したような感覚を受け、それは衝撃でしかなかった。

《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.4)『闇の中の眠り姫』に続く

(映画遊歩者:衣川正和🌱kinugawa)

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