【映画評】 草野なつか『王国(あるいはその家について)』 〈声〉と〈身体〉に関するメモ
草野なつか『王国(あるいはその家について)』(英題)Domains(2018)
本作をはじめて見たのは2019年、神戸の元町映画館だった。その時は言語化(テキスト化)し、noteに発表した。
さらにより深く理解しようと、2019年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で鑑賞。再び言語化を試みようとしたのだが、言葉は霧散し、わたしは成す術を失った。
今回(2024.2.26)、三度目の鑑賞となる出町座ではどうだろうか……。
たとえば、役者の身体も「家」であり、役者それぞれの固有のdomainを有することで、ある種の時間による囚われがあるのだと思えた。身体は時間から逃れることはできない……逃れる方法はあるのだろうか。
身体ではなく、声の優位。「家」、つまり領土の空間化というdomainには、身体ではなく声が支配する。暗号回路としての声。だが、声は嘘っぽいから「手紙で」ともいう。亜希から野土香への手紙。亜希にとり、家としての声とは、他者の介入不可能な声ということ。
亜希が書いた手紙を亜希が読むという行為、それは、文字(テキスト、台本)の身体化という「再生産装置」としての批評的な読み替え、亜希の逆襲の企てではないのか。
手紙は声として読むのではなく、基本は黙読である。ましてや、自分が書いた手紙を孤独の中で声に出して読むこともない。声はフランス語でvoix(ヴォア)とうが、voixには投票、忠告という意味もある。つまり、批評行為としてもあるのだ。
声は物語としてあるのか、自己のグラデーションの現れとしてあるのか、もしくは自己から離脱するオブジェクトとしてあるのか。 映画冒頭、刑事が調書を読むのだが、亜希が手紙を声に出して読むことに呼応するのか。両テキストとも、亜希についてのテキストである。
身体は声のinterpreter(翻訳者、媒介者、仲介者)なのかもしれない。
はじめに声があり、声なしに(自己を取り巻く)世界(domain)が終わることはないということ。
声は身体の一部ではない。
口唇は身体の一部なのに、声は身体の一部ではないという不思議。
声を身体に結びつけるには……。
声は嘘っぽい、と亜希は言ったのだが、身体は嘘っぽさを真実らしさに変換する装置なのかもしれない。声の嘘っぽさは、ある種の「見えなさ」に起因し、その見えなさを見えやすくする機能が身体にはある。
何が自己で何が自己ではないのか。声も身体も自己であるはずなのに、これだけ結びつけの困難な自己とは?
作用素〈声⇄身体〉のグラデーションの豊かさ。
身体は声による時間の流れを可視化させるだろうか。亜希にとり重要なのは声が纏う内的な時間であり、時間の可視化(→王国(domain)化)への苛立ちなのだ。それが穂乃香殺しへとなるのだ。
〈声〉と〈身体〉についてのメモを日々更新していたら、整合性が次第に崩れてきた。
でも、これが〈声⇄身体〉のグラデーションの魅力なのだと思う。
以前にnoteで発表した映画評は下記からお読みいただけます。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)