【映画評】 ジョー・スワンバーグ『ハンナだけど、生きていく!』
アメリカの新世代映画、アメリカン・ヌーヴェル・ヴァーグである映画。映画がフィルムからデジタルへと移行する大きなうねりの2000年代初め、新しいタイプのアメリカ映画を作ろうと若い世代が集まった。それは単なるインディペンデント映画ではなく、既存の大手のスタジオシステムでは不可能な、これまでに誰もできなかった新しいシステムとタイプの映画、つまり、映画の「新しいカタチ」(indieTokyoより)の形成を目指した若い世代たち。
その集団の名はマンブルコア(mumblecore)派。
2007年にIFC Films(ニューヨークを拠点とする映画製作および配給会社)が「The New Talkies:Generation D.I.Y」いうタイトルでマンブルコア映画を特集し、以降この表現が定着したと言われている。
参加者はジョー・スワンバーグ、グレタ・ガーウィグ、ケント・オズボーン、アンドリュー・バジャルスキー、ライ・ルッソ=ヤング、マーク・デュプラス、クリス・スワンバーグといったルーキーたち。
mumblecore (マンブルコア)とは、mumble(不明瞭に発音する、もぐもぐ言う)とcore(中核、中心)による造語。
従来の映画に見られる明確なストーリー展開や起承転結のない、どちらかといえばもぐもぐとした不明瞭な会話、わたしたちの生活の延長にある手作りの映画であり、家内工業的製作の低予算映画である。
マンブルコアの頭文字(m)が小文字なのは、低予算映画であることを示すためだという。
マンブルコア派の映画が日本で最初に紹介されたのが、これから述べようとする
ジョー・スワンバーグ『ハンナだけど、生きていく!』(原題)Hannah takes the stairs.(2007)
だが、彼らの最初の作品は、グレタ・ガーウィグ主演の『フランシス、ハ』(2002)である。監督は後にガーウィクのパートナーとなるノア・バームバック。言うまでもなく、主演のガーウィクは『バービー』(2023)の監督である。
では、ここからが『ハンナだけど、生きていく!』についての映画評。
マンブルコア派の映画なのだから、これまでの映画評の文体とは異なる、マンブル(mumble)風に語りながらも中核(core)を捉える批評としたい。上手くいったか否かは読んでいただいた人の判断にお任せである。
マンブルコア派の作品はもぐもぐと、要するに芝居的にではなく気の置けない友人同士の、もぐもぐ程度の発音で意思疎通ができてしまう映画なのだが、喋り方がそうだからマンブルコアなのかというとそうではなく、きっと撮り方そのものがマンブルコア、つまり自撮りではないけれど対象の捉え方の気持ちそのものが自撮りのようなものだし、もちろんカメラは三脚に備え付けられきちっとしているのだけれど、やはり自撮りだよなあとわたしは思うのだし、ストーリー展開もとりあえずこうしてみようか、じゃあ次はこうなんじゃない、それもいいかも、程度のもぐもぐな時間の流れで、というより何が流れているのかも明確ではないし、ただ、卒業したばかりの夏、つまり映画冒頭で既にハンナ(グレタ・ガーウィグ)がボーイフレンドのマイク(マーク・デュプラス)に嫌気がさし、何かにうまくいかずフラストレーションたっぷりに「触らないで」と冷たくつけ離し別れを告白し、その後、映画作りの仲間のポール(アンドリュー・バジャルスキー)と良い仲になり、それもしばらくすると別れて、次には元・鬱のマット(ケント・オズボーン)と恋に落ち浴槽の中で2人でトランペットを吹いたりと、いつ果てるともないそんなシーンで映画は終わってしまうのだけれど、自撮りという表現が妥当じゃなければ、自分たち撮りというのがマンブルコアという意味じゃないのかなあと、実際に家内工業的でなんでも自分たちでやってしまうカタチで、これが面白くて仕方ないからツイッターで次のようにわたしはもぐもぐとつぶやいてしまった。「エリック・ロメールやホン・サンスを受容する日本で、なぜ今まで上映されなかったのか不思議で仕方ないのだが、日本でのマンブルコア派の静かな波、これで終わってほしくなく、マットの鬱じゃないけど、穴から抜け出そうとしなくていいから、足元にある床を取り戻してみたい。」
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彼女についてのいくぶん否定的言辞です。
(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)
ジョー・スワンバーグ『ハンナだけど、生きていく!』予告編
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